旧ライフハック心理学

心理ハック

153 本日発売(予定)

私の本が、今日発売(予定)になります。

本書は、「ライフハックス」がタイトルの通りメインテーマなのですが、この「ライフハックス」という言葉、現在はどうなのでしょう? どのくらい、一般的に認知されていますでしょうか?

本書のタイトルを、「ライフハックス心理学」としてもよさそうに思ったのですが、ブログのタイトルと重なる上に、内容が「心理学書」らしきものでもないので、とりあえず「ライフハックス」で切ることにしてみました。(してみました、とは言いながら、タイトルを私の一存で決めることなど、できないのですが)。

興味がある方は、ぜひ、書店で手に取ってみてください。少し大きめの書店であれば、きっとおいてあるかと思います。

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152 ギャンブルを避けて自滅すること

「自己イメージ」という言葉が、私は苦手です。これは、話を難しくしてしまう用語だと思うのです。

ある男性がいるとしましょう。彼は、「自分に自信がない」ので、「女性に積極的にアプローチできない」。こんなことがよく言われます。よくある話のようですが、本当にそのように解釈できるでしょうか?

このような男性のために、ある種の「カウンセリング」が存在します。「自己イメージを改善する」セミナーのようなものです。たとえば「あなたの魅力的な点を、十個書き出してみましょう」といった指示に従って、自己イメージ改善のワークを積むというものです。

行動が精神状態を変えるということはありますので、そうしたトレーニングに有効性があるのはもちろんでしょう。しかし、「自己イメージ」が改善されれば、「女性に積極的にアプローチ」できるようになるものでしょうか? 事がそのような、「実践の問題」となると、私は大変懐疑的です。

そもそも「自己イメージ」とは何でしょう? 私も時々鏡を見ますが、その鏡像は確かに自己イメージの一種でしょう。ですが、他には?

少し以前のことですが、「やる気」ということになると、何かと「自己イメージ」という言葉が飛び交った時期があります。心理学は流行の世界、といった趣がありますから、共同幻視、グリム童話、パラノイア、アダルトチルドレン、共依存、セルフイメージ、ADHD、不登校、サイコパス、ゲーム脳等々といった言葉が、浮かんでは消える世界ではあります。その中で確かに、「傷ついたセルフイメージを回復させてあげれば、やる気は出るし、鬱も治る」といった主張が、かなり強く押し出された時代もありました。

私自身は、「セルフイメージ」を向上させることが本当にできるなら、それは確かに結構なことではあるけれど、たぶんそれは、「やる気」を出すこと以上に難しいことに思えます。問題は、「傷ついた自己イメージ」もさることながら、「ギャンブルをできるだけ避ける、可能であればゼロにしたい」という無理な願望を持たないことだと思うのです。

なぜ、ギャンブルと自己イメージが関係するのか?

私は、大いに関係すると思います。上記の「ある男性」の話に戻るなら、この男性の「特徴」は、「女性にアタックしたとして、失敗して傷つくのが怖い」ところにあるのではありません。それはほとんど全ての正常な男性に当てはまるので、何ら「特徴」と呼ぶには価しない言い分です。そうではなく、この男性の少々特殊なところは、「自分がアタックしたとして、絶対に失敗するはずだ」と心のどこかで感じている点です。その点を、「自己イメージが低い」と評されるわけです。

話は続きます。そのような男性が、「自分は絶対に失敗する」と思っているから、では「絶対に女性にアプローチしないか?」と言えば、そんなことはありません。よく観察していればわかりますが、こうしたことを言っている男性でも、「もしかしたら・・・」という気持ちはちゃんと持っていますし、「可能性に賭ける」こともするのです。ただし、「結局は失敗するはずだ」という変な確信を抱きながら。

この、後生大事に抱えていても、何の得にもならないような、「結局は失敗するはずだ」という確信こそ、当の男性にとって捨てがたいものです。傍目からは奇妙に見えますが、おそらくそうした男性は、意中の女性とうまくいくぐらいなら、「結局は失敗するはずだ」という確信をもっと深めたいとさえ、しばしば思うようです。そこまで行くと、ややマゾヒズムですが、「女性とうまくいっている間」は、「自分は結局破局してしまうのでは?」という不安を抱え続けなければ、なりません。その不安は、「結局破局してしまった」時に、消え去ります。それで最終的には、自分で破局を作り出そうとするのです。

確かに「自己イメージが問題」ではあるでしょう。しかし、私にはそれが一番大事な問題とは、思えないのです。そうではなくて、ギャンブルは本質的に「不安」を生じさせる行為であり、そして人生からギャンブルを取り除くことは、決してできないのだという、当然の事実を絶対拒否しようとするところから来る、自己矛盾こそが問題だという気がします。

不安とは、生命を脅かす、モロモロの不確実性であり、家を建てても地震で壊れるかもしれないし、仕事を仕上げても上司に却下されるかもしれないし、手を洗っても食中毒になるかもしれないし、右見て左見て右を見ても、暴走車に轢き殺されるかもしれません。もちろん、女性に笑われるかもしれません。みな「不確実性」であり、「不安の種」です。それらがゼロになるはずがありません。どんなに文明が進み、通貨レートを安定させ、食糧供給を拡充し、天候デリバティブを導入し、性格マッチングによる出会い系システムを設定しても、やっぱり不確実性をゼロにはできません。

不安をゼロにして生きようとすれば、生活からギャンブル性を全て取り除かねばならず、それを実現する唯一の方法は、全てに失敗してしまうことだけです。「失敗」が実現すれば、「失敗する不安」からは逃れられるからです。「何か」が不安だということは、少なくともその「何か」が、まだ起きていない状態なのです。

不安を抱えること自体を拒否しようとする人は、したがって、自滅的な行動を取ることになるでしょう。異性にはあえてフラレるようなことをするでしょうし、あえてダイエットをだめにしようとするでしょうし、あえて投資で失敗するでしょう。

私は留学先のアメリカで、そんなパラドキシカルに陥って、撤退していく人を、何人か見てきました。五百ページもあろうかという、分厚い英語の教科書を渡されると、私たち日本人は絶対に不安になります。「読み切れるのだろうか?」という気持ちになるのです。これは当然です。

そして次にとる自滅的な行動が、「読まずに先延ばしにする」ことなのです。手渡されたその瞬間から読み出しても、読了できるかどうか不明なものを、先に送るのは完全に自滅的なやり方です。「その瞬間から」読み出せる人と、どうしてもそれができない人の違いは、私が見たところ、ほんのわずかな違いでしかなく、決して「英語力」の違いなどではなく、「自己イメージ」の問題ですらなく、「読めないだろう・・・が、万が一ひょっとして、読み始めれば、読めるかも、しれない」と思えるか、「読めるはずがない」と思うかの違いだけです。

「読めるかも・・・しれない」と楽観的にも考えた人の全てが、一冊を見事読了し、Aの単位が取れた、というわけではないのです。場合によっては、単位を落とすこともありました。しかし、「読み出す」ことに成功した人は、何らかの形で大学を卒業していきます。一方で、「読めるはずがない」という思いに取り憑かれてしまった人は、その後数年にわたって、その思いに取り憑かれたまま、ほぼ一冊の英書も読了できず、帰国することになりやすいのです。

不安を抱えることを受け入れられない人は、不安を抱えずにすむ唯一の方法、すなわち「失敗を受け入れる」しかなくなります。「こんな英書を読むことが果たして自分に可能なものであろうか?」という、至極まっとうな不安感を拒否するということは、ギャンブル(一か八か読んでみる)を避け、「もちろん読めるはずもなかったのだ」という現実を受け入れることで、ようやく「不安ではなくなる」のです。

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151 アクセスされると変化する記憶

これは、池谷祐二さんの『脳は何かと言い訳する』(祥伝社)を読んで、久しぶりに思い出した事実なのですが、記憶というものは「思い出すたびに不安定になる」という性質を持つようです。

コンピュータ時代に育った自分としては、ある意味、奇異に見える性質です。というのも、「記憶」とはモノではない。モノではないのだから、何度取り出そうと、無くなったり減ったりすることはない、はずです。実際、コンピュータのハードディスクに、何度アクセスしようと、アクセスしただけでデータが消えてしまったりすることはありません。あったら、とんでもないことです。

しかし、人間は生ものです。ですから、記憶にアクセスすると、記憶自体が歪んでしまったり、極端な場合には消えてしまったり(思い出せないようなプロセスに移行したり)するのでしょう。

ここでちょっと、フロイトをお思い出します。フロイトは、幼少時にあまりにおぞましい体験をすると、そのような事実はなかったことにされ(抑圧)、思い出すことができなくなります。しかし、幼少時の重大な体験を意識の底に手つかずで沈めっぱなしにすると、成人して何らかの精神的不順となって、その沈めた記憶が現れようとします。

そこでフロイトの深層心理療法によれば、手つかずに沈められていた記憶に再アクセスしてやれば(意識化)、精神病は治癒するという理屈になっているわけですが、これはあながちおかしな話ではないようです。「思い出せば忘れる」という理屈からしても、おぞましい記憶はやり方によっては、「思い出す」という行為によって「消去する」ということができるのですから。

この話で重要だと思うのは、「手つかずの記憶」というのが本当にあるとして、それは、何らかのやり方で頭の外に追い出せるというところだと思います。あるいは、そのような記憶のプロセスを、別のものに変えてしまうことは、十分可能だというところでしょう。池谷さんによれば、薬物を使えばかなり確実にそれを実現できるようですが、私ならやはり「何かに記録しておく」という方法を採りたいところです。そうすれば、「記録した」という事実によって、「記憶」をとどめておくというエネルギー(緊張感?)を解放できるように、思えるからです。

この辺りはほぼ完全に推測ですが、GTDのような、「心にかかる全ての事項を紙に書き出す」方法に、人気が集まっているのは、その開放感を味わえる度合いが、大きいからだという気がするのです。「紙に書き出せば頭が空っぽになる」というのは、記憶がなくなってしまうという意味のはずがありませんが(つまり頭は空にはならないはずですが)、何らかの意味で緊張が解放されるのは、間違いなさそうです。

私は今、GTDよりももっと別のやり方で、必ずしも仕事に役立たずとも、精神の緊張を解放する方法を、考えています。それはどうやら、記憶と関係がありそうなのです。

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149 「プラシーボ」(偽薬)を考える

佐々木正悟です。先日帰国しました。
今日から、いつも通り、週5日でエントリして参りたいと思います。
休暇中サイトに訪れていただいた皆様、どうもありがとうございます。

早速ですが、「プラシーボ」という言葉は「偽薬」と訳されますが、ギリギリまで分析していくと、何が「偽」薬で、何が「真」薬なのか、区別が非常に難しくなります。

「そんなことはない!」と言われるでしょうか? 学校の先生が「方便」でチョコレートを「酔い止め薬だよ」と言って生徒に渡すのと、医者が本当の「酔い止め薬」をくれるのとでは、効き目が違うはず、でしょうか?

そもそも「プラシーボ(偽薬)効果」とは本当に存在するのでしょうか?

結論から言うと、これは確かに存在します。というのも、私は留学時代に、「心理学実験」を実施するに当たって、プラシーボ効果を勘案に入れて、その差分を取りのぞく、という作業を現にやらされました。

意味がわかりにくいかと思いますが、要するに、たとえば私が「うつ病への特効薬」を開発したとします。(できませんけど)。言うまでもなく、「私はうつ病への特効薬を作りましたぞー!」と自分で言っても、それだけでは全然ダメです。ちゃんとそれがうつ病に効くかどうかを、実験しなければいけません。(その前に何度も、人体に害がないかどうか、動物等を使って実験しますが)。

そこで、私の「開発した特効薬」なるものが、曲がりなりにも効果があると主張するには、「飲めば効果が確かにあった」ということを、実験によって例証しなければならないのですが、しかしそれだけでは不十分なのです。

「飲めば、プラシーボよりも、確かに効果があった」と言えなければならないのです。ということはつまり、「空っぽのカプセル」を飲んだ「うつ病の被験者」は、実際にある程度まで、「うつ病」が改善されてしまうので、私の「開発した特効薬」はそれよりも、もっと症状を「改善」させられなければ、「薬」と主張できない、ということになります。

さてここで。

私の周りに、「冬の風邪には、XXX!これじゃないと、俺には効かないんだよ!」と強硬に主張されている方がいます。
「実験」してみたことはありませんが、おそらく(90%以上の確信をもって)この方に、小麦粉入りのカプセルを渡して、「XXXだ」と言ってあげた方が、市販の「●●●」(何でもお好きな薬をどうぞ)を渡すより、効果が大きいと思われます。この場合、「偽薬」は「真薬」よりも効果を発揮してしまうのです。

これは、二重に心理効果が力を発揮している事例です。この人の、「自分には、XXXでなくては効かない」というのは、

「真薬」+「偽薬」効果です。

一方で、「●●●など効かない」という信念は、

「真薬」-「偽薬」効果と考えられるでしょう。

そして、たんなる「偽薬」効果は、「真薬」-「偽薬」の効果よりも、効果が大きいと考えることもできます。そうなってくると、どこからがプラシーボで、どこからが薬の「本当の効果」であるかが、非常に見えにくくなってくるのです。

だいたい、患者さんの立場から言えば(そして私も社会のあらゆる場面で「患者」になることはあっても、「医者」になることはありません)、「偽薬であろうが真薬であろうが、治りさえすればいい」という気持ちがあるでしょう。(だからといって、小麦粉入りのカプセルを手渡され、それに二千円支払っていると知れば、おそらく納得できません。ここら辺は、非常に難しい問題が絡んできます)。「鎮痛剤」や「向精神薬」となれば、なおのこと「プラシーボ効果」は大きく働くので、なおのこと、「なんでその薬は効くのか?」への答えが、見いだしにくくなってきます。

ここで、ごく日常の世界に話を合わせますと、私たちは「気分が悪くなった」時や「どうもやる気が出ない」時や「今日は寒すぎる」場合などに、「プラシーボ効果」に頼っている可能性が非常に高く、非常に高いと言うより、ほぼ間違いなくそうしています。「コーヒー」や「よく当たる占い」には、明らかにそうした効果が入っていて、たとえ「コーヒー」に間違いなく「興奮剤(カフェイン)」が含まれていて、「よく当たる占い」にも、現によく当たったという経験が伴うにせよ、それらの「プラシーボ効果」は依然としてかなり大きいのです。

その大きな「プラシーボ」が、日常生活を順調にしたり不調にしたりと、いちいち影響を及ぼしている以上、これを有効活用することを考えることは、その「迷信性」を暴くよりも、有意義だと少なくとも私には感じられます。この話には、いろいろな意味合いを含みますから、今後よく取りあげることになると思いますが、本日はとりあえず、私たちには「プラシーボ効果」が実際にかなりの程度働いていて、それらの働きを厳密に特定するのは、非常に難しいというところまでを、確認しておきましょう。

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147 「やる気の資源」は有限

昨日、2006-11-15(水)のエントリは、似たようなテーマの仕事であれば、先に行なう作業中に、次の仕事の内容を考えておくことで、仕事時間全体は節約できる、という話でした。当然、その逆も考えられます。

つまり、ある仕事をやっている最中、他に気になることがあって集中できないようならば、不安心理を抱えている間に行なう、すべての仕事がはかどらないでしょう。

不安を抱えていると、仕事に余計な時間がかかる。というのはよく言われることですが、私はそこから、もう一つの大事な心理的ポイントを、記憶に留めておくとよいと、思います。それは、「やる気資源」は有限だ、というポイントです。

ときどき、精神活動にまつわる「心のエネルギー」の類のものは、無限だと考えている人がいます。脳内には、脳内神経伝達物質という「化学物質」が活動していて、その数は有限なのですから、精神エネルギーというものが仮にあったとして、それが無限というのはおかしいことなのですが、精神というのは無形で目には見えないため、「無限」という雰囲気を持っているのです。

しかし、時間が有限なように(少なくとも生物にとっては)、精神の活動も有限です。ですから、心配事に使えば、その分は仕事に回りません。そして、ここからが大切な点ですが、だからこそ「見通し」は大事なのです。

仕事や勉強を要領よくこなす人はよく、「見通しを立てる」(計画を立てて、仕事を細分化する)ことについて、語ります。見通しが大切なのは、「やる気資源」が無限ではないからです。もしも、「やる気資源」が無限であれば、仕事が永遠に続くとしても、やりようによっては、永遠に前向きに取り組むことができるはずです。

しかし実際には、人は疲れますし、眠くなりますし、そして死にます。「やる気資源」が有限である以上、「見通し」がはっきりし、「終わり」が仕事に存在しなければなりません。仕事に区切りがあって初めて、「やる気資源」を有効に分配できるのです。

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