旧ライフハック心理学

心理ハック

045 所有効果がやる気を生み出す

ていうかね、だいたい言いたいだけな日刊日記。これって自分の中では「毎日」が大事なんだよ、って思ってたけど、今回の話ですんごく色々繋がった。

習慣を作る最大の秘訣は失敗する事 三日坊主撃退セミナー@名古屋 | goryugo

5月27日(金)のセミナーの内容を「」さんにまとめていただきました。ありがとうございます。

さらにちょっと補足して「習慣を継続させるモチベーション」の話をします。

人が何かを毎日のように続けられるようになるのは、「ある点」に向かわざるを得なくなったときだと、ずっと思ってきました。冒頭に引用したケースでは「毎日日刊日記を続ける」という習慣は、「最低1日1エントリをあげる」という「決めごと」を毎日感じているからです。

「短すぎては意味ないのでは?」
「毎日あげるよりも一定のレベルを保つことが重要なのでは?」
「1日に2エントリはあげないと」
「毎日あげるとどうなるの?」

といった「声」が自分の中からわくでしょうし、人から言われることもあるはずなのです。気にしないようにしていても多少は気になるものです。しかしそういう「声」のことは忘れます。でも「1日1エントリ」という「決めごと」は忘れません。

人はいったん何かを「所有した」と感じたら、容易なことではそれを手放せなくなるのです。客観的には無価値であることが自明なようでも主観的にはそうではなくなるのです。「毎日1エントリあげられている」という感覚が「所有したもの」と感じられ出したら、夜の23時頃からそのことの価値が急に高く感じられるものです。

家でも運動はできるのですが、どうしても、他の誘惑(読書とか、仕事とか、映画鑑賞とか、新聞読みとか)が多くて、なかなか運動に集中出来ません。

しかし、スポーツクラブに行ってしまえば、それ以外のことはできません。

勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!: 7. これからしたいこと バックナンバー

だからスポーツクラブに行ってしまえばいい、という方法です。これも同じ理屈なのです。は「それ以外のことはできません」とおっしゃっていますが、ムリをすればそんなことはありません。スポーツクラブで寝っ転がって読書してもいいわけです。

価値というものが「損失」という感覚と強く結びついていることがよく分かります。家では「どうしても、他の誘惑」つまり「運動して、読書していない(仕事してない、映画を見ていない)」ことが「損失」と感じられるのです。しかしスポーツクラブでは逆に感じられる。読書をしていて「トレーニングしない」ことが損失と感じられる。場所を変えると同じことでも得と損が反転するわけです。

所有しているはずが、毎日何らかの「変動」のせいで一時的に失われることになる。その仕組みをデザインすれば習慣行動をモチベートすることが可能になります。

たとえば私であれば、「所持金」と「家計簿上の数値」は1円単位で一致していることが「所有している」感覚になっています。これはしかし「お金を使う」たびに失われます。だから「一致させる」ために記録します。「そのつど付けるのは面倒くさい」という人はこの所有感覚がないので面倒に感じますが、私は損失回避のためのモチベーションがわくので、面倒だとは思わなくなっているのです。

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045 「思い出せない」問題

これはただ性格的なことかも知れませんが、私はあまり「教育問題」について言いたいことはありません。けれども時々、「んー?」と感じることくらいはあります。(誰にでもあるかも知れません)。

その一つが、漢字の書き取りテストです。学校の運営上当然なのでしょうが、時間制限があります。そして今ではないのかも知れませんが、一定の得点以下の生徒に対する罰もありました。書けなかった漢字を百回書くとか、間違った漢字一字について校庭を1周するといった程度のものでしたが。ちなみにそれで7周した「記憶」がありますがけっこう大変でした。もっともこの種の記憶は「作り出された」ものかもしれないのですが…。

気になるというのは、このようなプレッシャーを与えることで、記憶を再生しやすくしようというねらいがあるのか、それとも他の狙いがあるのか、よく分からないところです。べつにサディスティックな意図はなかったと思います。私はそれほど先生に悪意は感じませんでした。

実際、とくに「のど元まで出かかる現象」においては、「思い出そうとし続ける」ことがかなり効果的です。なのに時間を短く制限するテストが続けば、人は「思い出そうという努力はムダ。それよりきちんと覚えておかないと」という風に判断してしまうでしょう。

それから一問間違う度に、罰則があるというプレッシャーもかけられています。これも先に述べたとおりで、プレッシャーと言うほどの内容ではありませんがテスト中はなぜか気になるものです。(たいした罰でないと気付くのは罰を受けているときです)。この「大いに気になる」が余計なのです。記憶再生にとにもかくにも大切なのは、「集中して時間をかけて再生しようとがんばる」事にあるわけです。

ところが小テストの時間帯に生じる心理現象は、この反対で、「注意分散しやすく、思い出すのに使える時間はほんの少し」です。この条件下で思い出せないような勉強の仕方では、「覚えた内に入らない」という妙に厳格なものです。

そういう癖をあまりつけると、「覚えた内に入らない」と「完璧に覚えた」の中間を生かす能力が、むしろ失われそうです。実際の所すぐに思い出せずとも一分多く考えれば、かなりのことが思い出せるのです。

そういうことは脳科学に関する知見がないと分からないのだという人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。ワイドショーで見た芸能人が誰と離婚したのかといったことを、なかなか思い出せなかったけど、一日中考え続けていたら急に思い出せたという経験をお持ちの人は多いでしょう。時間をかけると思い出せる可能性は高くなるものです。この種の記憶再生には誰も罰則を設けないでしょう。プレッシャーはたいてい不要です。

何かを思い出す能力を付けるには、リラックスして時間をかけて思い出すべくつとめることです。

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044 ストレスをためていないかチェックするリスト

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・立つ
・水を飲む
・短時間人と話す
・質問する
・1度に1つを貫く
・コーヒーを丁寧に入れて丁寧に飲む
・1分でいいから何かに注意する
・本を読む

上のようなことをやっているかどうか?
簡単な自己診断ですがこれすらなくなっているときには要注意です。

ふつう上のような行動を取るときには、一つ一つ別々に行うことは少ないもので、立って人と話すことに1分間集中するということが多いはずです。

ずっと座り詰めのまま何時間も経過して、その間誰とも話していないのに、作業はずっとマルチタスク。そういう状態がずっと続いていたら警戒してください。

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043 等身大の自分を出し続ける

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過度に自己愛的でない限り、私達は等身大の自分のアウトプットに、なかなか満足が行かないようにできているようです。セミナーなどで撮影された自分の動画を2時間も観る不幸に恵まれると、文字通り痛いほどよく分かります。

しかし「アウトプットで食べている人」がよく言っているように、「十分満足いく作品を作ってから世に問う」とか「十分に満足いくほど自分を磨いてから出す」という考え方は報われないと思います。それではいつまでたっても何も出せないことになります。

結局ね、自分では50〜60点のできくらいで完成させて、送っちゃえばいいんですよ。なんでかって言うと、自分で「100点に近づけた」と思えたマンガでも、所詮最初に描いたマンガなんて、人から見ればショボイものなんです。(151)

もちろんだからと言って「100点を目指す必要はない」ということにはならないでしょう。そこが難しいところですが、ほとんどすべての人の自らに課す基準は、実現できるレベルより数段上です。

千差万別な個性の中で、時々ほぼすべての人に共通する心理があるのは興味深いものですが、「影のナルシズム」も大半の人に共通している面白い心理現象です。(関係ありませんが、かなり寛容で忍耐強い人すら交通渋滞を嫌悪するのも、人間の面白い共通心理です)。

100点に届かなくても「60点」が変化する


同名のタイトルにもあるとおり「幸せはいつもちょっと先にある」ものです。ナルシズムを完全に満たし得ないという意味でそれは少し悲しいことかもしれません。またこのケースにおいてナルシズムと完璧主義がほぼ同じ意味になっている点も要注目です。

しかし、救いはあります。100点を目指し続けるのではなく、60点を出し続けるところに救いがあるのです。

だから、50〜60点の出来でも、ずっと描いていけば、最初に描いた60点と、どんどん描いた後の60点では、絶対クオリティが違うはずなんです。

これを素直にとらえてみることが非常に大事です。こういうのを読むとどうしても「引っかかり」を感じてしまって、余計なことを付け加えがちです。その分身重になってしまいには身動きがとれなくなるのです。

マンガだろうと小説だろうとビジネス書だろうと哲学的断片だろうと芸術作品だろうと、人は自分にとって興味ある部分しか受信しないものです。

「発信者が自分のダメさ加減を十二分に自覚しているかどうか」とか、「反省すべき点をしっかり反省しているかどうか」などといったことは、実はどうでもいいことです。面白くないものを受け取ったとき、発信者が海より深く反省していたからといって、その分うれしくなどなりません。

シビアな話ではありません。単純な話なのです。

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042 Evernoteを使っていれば思わぬアイデアにぶつかることができるわけ

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最近ブログや連載の「ネタ」に詰まったときにふとEvernoteが目に入り、そこから思わぬアイデアが転がり出てきたという経験が頻発しました。

これはたんなる偶然なのか、少しは再現性のあるものなのか、ちょっと考えてみます。

そうそう、それそれ!


Evernoteに限りませんが、メモを記録しておくメリットの1つとして「忘却を防ぐ」ということがあります。中でもかなり高度な「備忘」の1つが、「いつか役立つかもしれない情報」の記録です。

そういう情報を保存しておくのは簡単ですが、利用するのはそこまで簡単ではありません。「いつか役に立つかもしれない情報」が必要になったときがやってきても、それがどこに入っているかがわかりにくいからです。そもそもEvernoteに入れたということを首尾よく思い出せるかどうかが疑わしい。

それでもEvernoteを検索して見つけるという経験をしている人は少なくないはずです。これはおそらくちょっとした「アハ体験」のクオリアをともなっているでしょう。

アイデアを「思い出す」ということ


Evernoteにどれほど膨大な情報を詰め込んでいるにせよ、私達がふだん見聞きし、思考している情報量に比べればたかがしれています。何しろ私達は生きている間ずっと「感覚記憶」という形で何かを記憶し続けているのです。

アイデアというものを自分の中に見つけるとすれば、膨大なとっくに忘れ去った「自分の記憶」と関係しているにちがいありません。問題はそれらを検索する方法自体が失われている点です。

Evernoteの脈絡のないノートを走査するメリットは、その検索する方法のない記憶を探るトリガーになりうるところです。Evernoteのどのノートにも見つけるべきアイデアはないかもしれませんが、ノートを書き残した感覚に関連した記憶に、何か必要なものがひそんでいる可能性はあります。

Evernoteに「いつか役立つかもしれない」というタグを付けたときと同じような感覚を、ある思考内容に感じたかもしれません。その思考内容はどこにも記録されていなくても、「いつか役立つかもしれない」という意識とともに、脳のどこかに保存されているかもしれません。

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