心理ハック
453 余裕を持ちすぎると脱線してしまう
先日、GTD勉強会という集まりに参加してきたのですが、そこで発表者の人が面白いライフハックを紹介してくれました。
・余裕がありすぎると、余計なことをしてしまうので、それを防ぐために音楽を聴くようにしている
というものです。
これはなかなかうまい方法です。比較的簡単なタスクが目の前にあって、時間的にも余裕があると思うと、人はどうしても「いつでもできるから、今ちょっとくらい脱線しても大丈夫だろう」と思って、やらなくてもいいことをやってしまうのです。そしてそちらの行動にのめり込んでしまって、時間と精神力を消費してしまいます。
ダニエル・カーネマンの「注意と認知リソースのモデル」に従えば、余裕があるタスクに取り組んでいるときは、そのタスクに集中しきれないということです。ヤーキーズ=ドッドソンの「覚醒レベル」という言葉を使えば、認知リソースが余っているので、その興奮状態を保つために、もっと没頭できる活動を、脳が欲すると言えるでしょう。
逆に、興奮できるような活動を見つけられないとなると、今度は脳が覚醒レベルを下げようとするかもしれません。しかし、私たちは覚醒レベルが下がっていく感覚を、通常好みませんので、(それはだんだん退屈になっていく感じだから)、もっと興奮できるような活動を求めます。それで、仕事が容易だと、もっと興奮できそうな夏道へと、脱線してしまうのです。
ここで前述したように、音楽を聴くことで、認知リソースを使わなければいけない状況をあえて作り出します。この方法については、いくつかの説明の仕方があります。
1つは、容易すぎるタスクを、ほどよく難しくしているという解釈です。この場合は、「容易な仕事」を「ながら仕事」に変えることで、仕事の難易度を上げているというわけです。こうすれば、容易な仕事で退屈していた脳が、「音楽を聴きながら仕事をする」という難易度に変わったことで、集中度を増します。
もう1つは、2つのタスクに注意を分散しているという解釈です。つまり、タスクの難易度は変わりませんが、容易なタスクに回っている認知リソースの総量が、減るのです。なぜ減るかといえばもちろん、認知リソースのいくらかが、音楽を聴くことに回るからです。
いずれの解釈であれ、タスク対認知リソースという図式で見る限り、注意力の最適化を図っているという点ではかわりありません。この、タスクに対する最適注意量を保ち続けることは、おそらく日々の仕事をスムーズに、ストレスなく進めていく上で大切なことです。
452 ブログのカテゴリから行動を改める
これは小山龍介さんのライフハックですが、なるほど、そういう考え方もあるかと感じ入りました。近著、『iPhoneHACKS!』の一節です。
ブログにはたいてい、タグやカテゴリを設定することで、テーマごとに検索を容易にする機能があります。このブログでいえば、「やる気が出ない」というカテゴリを選択すれば、「やる気問題へのライフハック記事」が抽出されるように、設定してあるわけです。
小山さんのライフハックは言うならばこの機能を逆手にとって、カテゴリを先に決めてしまい、そのテーマに沿うようなブログを書くよう、自分を促すということです。そうすれば、行動を律することができると。
「書評」というカテゴリーを作れば、本を読んで書評を書こうというモチベーションにつながります。「気になる記事」というカテゴリーを作れば、ただ漠然とニュースを読むのではなく、気になったものをブログに書いてみようという意識が働きます。
p102
たしかにこうしたことはあります。というのも、私などはたとえば本を書く仕事を抱えているので、自分がテーマとしている本に関わる情報を、日夜探し回ってしまうのです。これはほとんど無意識の力が働いていて、最近刊行した「勉強術」の本を書いている最中は、誰彼の「勉強術」が気になって仕方がありませんでした。
雑誌の「勉強法」を見ればそれを読み、新聞の「教育欄」を読めばそれを読みといった調子で、とにかく自然と注意がそこへ向かってしまうわけです。そしてそれらをデジカメで記録したり、あちこちにメモしたり、録音したりと、とにかく忙しくなります。結果、やはり多少とも知識もつくわけです。
もちろん、本を書くのは仕事であるが、ブログを書くのはそうではないので、そう簡単に習慣が改まるわけはない、といわれるかもしれません。それもそうですが、ブログを1つわざわざ立ち上げるからには、少なくとも最初のうちは、モチベーションの高まりがあるはずです。その機をとらえて、自分の習慣に影響を持つようなテーマを与えるというのも、やってみる価値はありそうです。
なお、小山さんはこのライフハックについて、アフォーダンスという心理概念を援用されています。アフォーダンスとは、私たちの身の回りに、意味や価値が実在し、それを提供してくれているとみなす考え方です。椅子は座ることができる価値、紙は書くことができる価値、とってはつまむことができる価値を提供し得ます。
私は、ブログのカテゴリの例は、プライミング効果をもたらすのではないかと思ったのですが、アフォーダンスといわれればそうかなと思って、これも興味深いと感じました。
※プライミング効果
先行刺激の受容が後続刺激の処理に無意識的に促進効果を及ぼすこと。
[株式会社有斐閣 心理学辞典]
リサイクルの話を聞いたあと、「ペット」に続く後を完成させるよう言われれば、、「ペットボトル」などが思いつきやすいが、犬や猫の写真をたくさん見せられたあとなら、「ペットショップ」などの方が連想しやすくなる。人間の脳は一定の方向付けを与えられると、それに沿った語句を連想したり、情景を想起しやすくなる性質を持つ。
451 何をもって「上位」とするか?
前回(450 集中する主体)、次のように書いたところ、「何をもって上位と位置づけるのか?」という疑問をいただきました。「注意」というとこの問題が発生してしまうので、あまり深入りしないようにしていたのですが、徐々に深みにはまりつつあります。
「450 集中する主体」より
ここで一歩踏み込みます。そのような「注意力を保持する集中力」を、意識的な(メタな)自我がコントロールしていると考えると、この上位の自我が働くことができるように、脳のエネルギーを貯えておく必要があります。
下図をご覧下さい。なにやら電子部品の回路図みたいに見えますが、これは大脳の「配線図」です。
http://vis.berkeley.edu/courses/cs294-10-fa07/wiki/index.php/A1-ArielRokem
この図においては、原則としては、上へ行くほど「上位」ということになります。なぜ「上位」かというと、情報が統合されていくからです。V1とかV2とかV3という記号だけに着目すると、確かに上へ行くほど数字が大きくなっているのがわかるでしょう。
VはヴィジュアルのV。視覚野を意味しています。視覚野1から視覚野5まで昇っていくプロセスにおいて、視覚情報は徐々に統合されていきます。「どこに」「何が」「どんな色で」「どんな形の」といった視覚に関する個別の情報が、上位に上がるにつれて統合されていくことで、私たちは物体を「今見ているように」眺めることができるようになります。
ただ、この図だと一見したところ、最上位にHC(HippoCampus=海馬)が来ていますが、これが「司令塔」というわけでもありません。少なからぬ脳科学者が、脳の「司令塔」として、前頭葉の役割を多としています。
このことは、以下のように分類してみると少しわかりよくなります。
http://vis.berkeley.edu/courses/cs294-10-fa07/wiki/index.php/A1-ArielRokem
薄緑色の部分が「前頭葉」。ブロードマン46野と呼ばれるような部位があるところです。たとえばこの部位は、「注意力を極めて高く必要とするような課題」を解くときには、活発になるという実験例があります。無意識ではできないような課題です。
視覚情報に限ってみても、注意にはトップダウンプロセスと、ボトムアッププロセスがある。たとえば私は今自分の部屋の中で、目の前のマスコットに注意を集中することができます。これはトップダウンプロセスです。意識的に注意をコントロールしたからです。このプロセスにおいては、前頭前野付近のシナプスが何らかの形で活性化され、それによって視覚情報の統合について、何らかの「操作」が加わったのでしょう。
実際、私はマスコットの「色情報」に特別な注意を払うこともできれば、その「形」に特別な情報を払うこともできます。情報は統合された形で入っては来ますが、その部分的な構成要素に注意を向けることもできる(つまりその部分的な担当シナプスの活性状態を操作もできる)わけです。
この反対にボトムアッププロセスでは、外的な物体からの刺激が、注意を促してきます。部屋にハチが入ってくれば、ことさらトップダウンでそれに注意を向けようとしなくても、自然とその視覚情報へ注意が集中します。そのプロセスは初めはボトムアップであっても、すぐにトップダウンに切り替わるでしょう。
450 集中する主体
前のエントリで、「集中力」は認知心理学で、もっと大きく扱われるべきだ、というような意味のことを書きました。もちろん、発達心理学などの分野で、ADD(ADHD)という発達障害が扱われています。これはもともと、集中力や注意力が不十分な子どもの問題に焦点を当てていたものです。
ADDは今や、子どもだけの問題ではなくなりつつあります。仕事中に集中できないということが、社会人の問題としても浮かび上がってきたからです。
現代社会の環境が、人の気損じを生みやすいから、ADDが流行するのか、あるいは、遺伝から発生した心理障害に病名がついたことで、以前よりもはるかに多くの症例が報告されているのか、これを区別するのは困難です。ただ、Lifehacking.jpさんの以下のエントリは、この問題と深い関係があります。
漂流する自分に喝をいれる
定期的に自分にあえて「いま、それをしていていいの?」と確認のリマインダを入れるのは、なかなか集中力が向上しない日が数日間続いているときのリハビリや、10時、14時、16時といった「中だるみ」しやすい時間帯に行うのが効果的です。
毎日これが必要になるわけではありませんが、何をしても集中力が続かないといった昼下がりに、こうしたテクニックを使うのは、終わりかけている午後を救出するのに役立ったりします。
注意のターゲットを、特定の作業にフォーカスし続けること。
「集中力」は、この文脈ではこのように定義されるでしょう。
注意が外からの刺激に誘導されたり、特定の刺激にフォーカスし続けるのが負担になると、異なる刺激に逸脱するのは、認知心理学でも指摘されています。ここでホムンクルス問題に踏み込むと話がややこしくなりますが、とりあえず「前頭葉が脳の社長さんだ」ということにしておくならば、リマインダーは前頭葉(前頭前野)をたたき起こすのかもしれない、という程度の推測はできるでしょう。
ここで一歩踏み込みます。そのような「注意力を保持する集中力」を、意識的な(メタな)自我がコントロールしていると考えると、この上位の自我が働くことができるように、脳のエネルギーを貯えておく必要があります。同時に、それがすぐ動き出せる程度には(少なくともリマインダーで我に返ることができる程度には)、再活性化できる状況になければならないはずです。
その意味で「注意の逸脱」は二重に悪い影響を引き起こしている可能性があります。たとえば「上位の自我」を休ませるために、仮眠をとるという「逸脱」はまだいいのです。よくないのは、「上位の自我」が集中力を保つ上で負担を感じているからといって、他の精神活動(ネットブラウジングや読書やテレビ視聴)をしてしまうことなのです。これは、逸脱によって時間を失う上に、再度集中を得るためのエネルギーも、浪費していることになるからです。
449 集中的注意と前注意課程
「集中力を付ける方法が知りたい」とは、私のような仕事をしていると、きっとよく尋ねられることと思います。セミナー前などにも、何度かこうした質問をいただきました。
いかにも認知心理学が扱いそうでありながら、意外と認知心理学では、そのものずばりの答えが得られないものとして、「時間認知」があげられます。「時間」については(あるいは「言語」もそうかもしれませんが)、色々な話は出てくるものの、「結局どういう事?」に対する答えが、スッキリしていません。
「集中力」などもよく似ています。これが「注意」や「記憶」であれば、もっと色々なことが分かってきて、楽しいのですが、「集中」となると、薄手の心理学用語辞典では、まともに取り扱われてすらいないこともあります。
それでも、「集中的注意」という言葉がちゃんと出ては来ます。これは「前注意課程」という言葉と、ふつうは対の用語として解説されます。
「前注意課程」とは、認知心理学者としては有名な、ウルリック・ナイサーの指摘した心理現象です。よくコンピュータの画面に、変なカーソルや記号を示し、それを指摘するまでの時間を計る実験があるのですが、集中的な注意力を高めるには、その前段階として、一定の視野の範囲内での「無意識的な精査」が必要になってくるというわけです。
ぼんやりと自室を眺めているときには、特にこれといって何かを「見ている」という気持ちは持っていないものです。つまりこの段階では、部屋全体を「無意識的(自発的)」に調査していると言えます。
しかし、大事なものが目に飛び込んでくると、いきなり集中的に注意できる。この何が大事で、大事だから注意を向けるという事を可能にするのは、無意識的な注意課程が有効に働いてこそだ、というわけです。
いわゆる「木を見て森を見ず」の状態を長々と続けていると、視野を狭めても、集中力は発揮されない、と言ってもいいかもしれません。