旧ライフハック心理学

心理ハック

021 過剰な緊張を「セレモニー」で乗り切る

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「私の「ロボット」はうまくやれるだろうか?」と思ったとたんにかなり強い不安が襲ってきます。絶対に失敗が許されない、というような場面です。たとえばピアノの発表会などがそうでしょう。

「ロボット」は、ちゃんと仕事が出来るのなら、ほとんど注意資源を要求してきません。こびとの靴屋ではありませんが、眠っているうちにとは行かないまでも、神経衰弱を引き起こすことなく仕事は滞りなく済まされるのです。今私がこの文章を書くに当たってキーボードの配列を全然意識していないのが好例です。

しかし「ロボット」の仕事の仕方は、この逆の問題を引き起こします。自動化があまりに完璧なので、自意識的な注意を必ずしも歓迎しないのです。つまり、「私の「ロボット」はうまくやれるだろうか?」と思ったとたんに失敗の可能性を高くしてしまうのです。

この点で人が悩むのは、「ロボット」と自意識の均衡関係なのです。普段のピアノの練習では、ほとんど「ロボット」の自由にやらせておきながら、急に発表会では自意識がしゃしゃり出てくるのでは失敗を招くようなものです。

逆に、普段は妙に自意識的で(つまり技術向上志向)「ロボット」任せにしない人が、発表会では茫然自失となってしまっていきなり「ロボット」任せにする人もいます。これはうまくいくことが多いと思いますが、失敗するとそのとたん自分が何をしていたか分からなくなりかねません。(発表の場で固まってしまうパターンです)。

そこで、「ロボット」と自意識の安定的な関係を確立すべし、ということになるわけですがこれがなかなか難しいのです。普段は、緊張する理由があまりないから自意識は「お休み」しがちだし、上司が見ているとか発表会だとか大切なお客さんだとか大事なときに限って、必ずしも役には立たない自意識をひっこめられなくなります。

そこでマインドハックです。どうしようかということですが、いろいろな人が対策として使っている手段が「セレモニー」です。これは意外に効果があります。「ジンクス」などという人もいますが、要するに発表会の前には、必ずコーヒーを0.5杯飲むとか、受験テストでは三角の鉛筆を使うとかそういったことです。これは、自意識に一定の暗示をかけて「ロボット」との関係を安定させる効果があると考えられます。

セレモニーやジンクスはばかげていると思う方もいるかもしれませんが、もっておいて損はありません。それに必ずしも無根拠ではないと、以上からも言えるでしょう。

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020 なぜブログは毎日更新されるべきなのか?

このエントリは2006年5月5日の記事を加筆修正しました。

あまり知られていない実にユニークな本があります。仕事上のパートナーである大橋悦夫さんの、かなり初期に出版された本です。

大橋 悦夫
翔泳社 2006-04-20

by G-Tools , 2006/05/05

この本を買って読んだ理由は、第一に仕事上の理由なのですが、読みながらいままでつくづく考えてきたことを再考することになりました。人は新しい刺激によって、何を快感としているのだろうということです。

『「手帳ブログ」のススメ』からは、いろいろなメッセージを読み取ることが出来るのですが、私が読む限り最も強調されていたのは「ブログは更新されたほうがいいし継続した方がいい。だがその継続が難しい」ということでした。『「手帳ブログ」のススメ』では、「継続は自分のためにする」ものなのですがブログを「読むだけの人」にとって「更新」は完全に読む人のためのものです。

連載を読む楽しみ


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逆に言うと、特に仕事でブログを書くような立場の人にとって、ほぼ連日定期更新することは、それだけでひとつのブログの魅力になるということです。反対に、内容がかなり充実しているとしても、更新間隔が大きくそれも不定期に空くブログはどうしても読者を失いがちになります。

一言で言うとブログを読む楽しみとは、「馴染み深くて新しいもの」にふれられることにあるのです。それがふつうは、トップに来ます。ということは、ブログを楽しんで読むためには「ブログを読むロボット」が必要だということになります。

私自身の「ライフハックの心理学」というブログをある程度楽しんで読んでいただくには、読者の方が「ライフハックの心理学を読むロボット」を持たなければならないということになります。そのためにはある程度の期間の更新継続を私がしなければ話にならないわけです。

それではどうなると「ロボット」がある人に実装されたと言えるでしょうか。これは「ロボット」の使用目的から類推できます。「ロボット」の仕事は同一の刺激に対して普遍の表現を実現することと、その刺激に関連した予測を可能とすることにあります。私のブログについて言えば、今後このブログで私が書きそうなことを読者があらかじめ予測できるようであれば、その読者さんは「ライフハックの心理学用ロボット」を実装していることになります。

ブログをこれから作ろうという人の場合、読者の方に喜んでもらいたいと思うのであれば、おおむね以上のようなことを意識しておくと良いかもしれません。「更新ページ」が「馴染み深くて新しいもの」になるためには、そもそも自分のブログに馴染んでもらう必要があります。そのためには、試行錯誤は当然あるとしても、初めのうちはあまりデザインを変えないことと、多少とも似たようなテーマの話で続けていくといいでしょう。読者さんに「ロボット」がすぐ出来ます。

いったん読者の方に「ロボット」が出来てきたら、(これは、大体同数の読者さんが、同じような時間にアクセスするようであれば、そうなったと分かります)基本的にページの更新自体が快楽をもたらします。デザインを時々大きく変えても大きな快楽となります。

「ライフハックの心理学」のための「ロボット」が一度できあがると読み手はその内容を予測するようになります。しかしその予測は、当たるに決まっているものではありません。当たるに決まっているものは予測といいません。予測とは、外れるかもしれない中で、当てようとするから予測なのです。だからこそ、すでに見たページの魅力は「ロボット」を実装してしまうと激減するのです。すでに見たページの内容を、予測するのは無意味なことです。

したがって、本当の高度な予測は「ロボット」だけでは出来ません。「ロボット」だけでは、自意識的な予測が出来ないのです。ネオフィリックな喜びとは、この自意識と「ロボット」の協調による予測を、実現することにあります。

浦沢直樹さんの『プルートゥ』、皆さんはお読みですか? お読みの方は、続きが気になると思いますが(お読みでない方ごめんなさい)これからアトムやプルートゥやゲジヒトはどうなるのでしょう? 完全に予測することは当然私達には無理ですが、それでも何となく予測できることはたくさんあります。あのマンガでアトムがアラレちゃんのように振る舞ったり、ゲジヒトが裸踊りするだろう・・・などとはとても思われないものです。

上手なシナリオライターや漫画家は一見予測不可能なようなシナリオを作っておいて、巧妙に読者に先を予測させ一部予測通りに展開して一部を裏切ります。こうされることで私達は、物語のための「ロボット」を実装しているものの、それだけに任せておくことが出来ないので注意力を増大させ気合いを入れて予測を果たし、一部当てることで大きな快感を得て一部裏切られることでますます注意力が増大し、その増大した注意力が自分の快感と予測力を実感し大いに悦にはいるのです。

連載を書く喜び


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ここまでは、読み手にとっての「馴染み深くて新しいこと」ですが、実は書き手にとってこそ、これ以上の快楽があります。この快楽はあまり指摘されないものです。「続けたものにしか分からない喜び」といった、いささか抽象的な言い回しが使われます。

実のところ、ブログであれ日記であれ単なる備忘録であっても、おそらく人が何かを継続することで得る快感とは「馴染み深くて新しいもの」なのです。馴染み深くて新しいことを自分自身で作り出してしまうというところの快感です。長年使い古した手帳に新しい項目を書き足すことは当然予測の範囲内の事柄のはずですが、この予測は自分自身の行動としてはきわめて高級な部類に入ります。私達は自分が次にとる行動をそこまで精密に予測することは、ほとんど不可能なのです。

長年使ってきたのなら、その手帳を書くための「ロボット」は当然実装されています。その「手帳ロボット」は次にあなたが書き込むことを、手帳を見たとたんに無意識に予測するのです。(逆に言いますと、長年使った手帳には決して書き込まないであろうことが決まってくるものです)。しかし新しいメモを取ることは「ロボット」だけでは出来ません。かならず強い注意力と「ロボット」との二人三脚が必要です。そして書くそばからその新しい項目は「馴染み深くて新しいもの」になっていくのです。

自らの「ロボット」にとって十分に普遍の表現を実現しているようなブログとはまさにそうしたものになっています。確かにそのブログは自分=「ロボット」にとって構造が変わろうと色が変わろうとデザインが変わろうと同じものだという実感のもてるブログであるはずです。そうなればそこに新しいことを書き込むことは常に喜びになりうるわけです。

もちろんそこまでいくにはどうしてもある程度の間、ブログを継続していく必要はあります。その前に挫折する人の多さは「ロボット」なしの活動がいかに人間にとって、簡単そうなことですら難しいかをよく物語っています。この難関を乗り越えるために盛りだくさんのアイディアをまとめたのが、大橋さんの『「手帳ブログ」のススメ』なのです。

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019 小さな締め切り効果

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タイマーがなかったら、アメリカでの留学生活は、実際より遥かに大変なものになっていたでしょう。わずか1ページの英文を、30分かけて読んでいました。

これでは、絶対にダメだ!
と思って、タイマーを購入。「10分」で区切って、「1ページ」を読む!受験時代の独特の焦りの気持ちが、自分の隠れたやる気を引きずり出してくれました。

留学を終える頃には、「10分」で「10ページ」という締め切りが、しばしば達成できるほどに!こういう読み方ではやはりダメではあったのですが。

「ピッ!」と強い音が鳴ると、それまでアダルトサイトを見ていた自分が、一変して教科書を開く!そんな効果にも驚き。蛇足ですが、どうしてもやりたくないことをどうしてもやらなくてはならんという不快な緊張感急速に高まると、なぜエッチなサイトが楽しくなるのかという心理についてもこのときに分析しました。

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018 想像力を使って気分を変えることはできる?

音もなく光もないところで皮膚感覚さえ剥奪されると、人の想像は異様にたくましくなる。その結果として、少数ながら「天国」を見る人と、その逆に「地獄」を見る人とに、分かれてしまうらしいという話を最初に知ったのはたぶん小学校6年生の頃でした。もっとも今から振り返ると先生もよくガセビアを飛ばしていたからあれもそうだったかもしれません。

こういうことが起きるのは、「眼」から入ってくるはずの情報処理が、「脳」の仕事の1つだからです。情報がなくなっても、「脳」の処理は続きます。

「ブラック・ルーム」はいわば、目覚めながら夢を見るための部屋のようなものです。外部の刺激が欠けているので、その夢の内容は、私たちの精神状態や私たちの性格に非常に影響されやすいらしいのです。悲観的な性格だったり気分が悪かったりすると、眼前に現実のなにかがあればいいのですが、全く何もないので「何か悪いもの」を見たりすることもあるのです。

留学当時の私は次のように考えました。「ブラック・ルーム」の中では、想像力が普段の環境よりも容易に活用できるはず。ならば、容易に活用した想像力によって自分の気分を変えるのも容易ではないか?「ブラック・ルーム」に入れられると、悪夢や天国を見てしまうというが、それほどに極端な環境なら自分でそれをコントロールして悪いはずはない。「何か」が見えてくるまで、待つことはない。

これが私の、アメリカ留学中の卒業論文のテーマでした。アメリカの大学生四十人を被験者としてこの実験をしました。暗闇を作るのは簡単でしたが、厄介なのは「無音状態」です。地下の静寂な一室を借り切り、BOSE社の無音状態を作り出せるヘッドホン(ノイズキャンセリング)を耳にかけさせることで達成しました。

学生に英語で「イメージ」というと何をイメージするかわかったものではないので、「記憶」をたどってもらうことにしました。上述のように疑似無音・無光状態に被験者を置き「最善の思い出と、最悪の思い出」を五分間、それぞれ思い起こしてもらいました。そして別の被験者たちを対照実験のために音と光の存在する、普通の状態でやはり五分間「最善の思い出と最悪の思い出」をたどってもらったわけす。

仕上げとして、彼らの「気分の変化」を心理質問によって統計処理しました。この辺は技術的すぎて面白くないので省きますが、結果は私自身が驚くほど劇的なもので、人はただ想像力を使うだけのことで自分の気分をよくすることも悪くすることも、自由自在にできるようでした。特に「ブラック・ルーム」の中での効果は抜群で「悪い思い出」の後ではしばしば泣き出す学生もでたほどでした。(これは完全に、想定外。ある意味でとても困った結果です。40人中1名でしたが)。

指導教官に指摘された問題はこの方法が、はたして鬱病や気分障害といった心の病気を治療するにいくらかでも有効かどうかでしたが、それは私にはわかりません。いちばんの問題は、人は「よい気分をもたらす体験」よりも「悪い気分をもたらす体験」の影響下に、はまりやすいことです。この理由は納得いくものです。基本的に、人間は生物なので、「危険」に対処しなければならないからです。危険の方が「天国」よりも注意を引きやすい。というのも「天国」なしでも生物は生きていけますが、「危険」を無視し続ければすぐに死んでしまうからです。

卑近な例で言えば、高級なフィレ肉と安いバラ肉のどちらを選ぶかは趣味と経済の問題でしょうが、安いバラ肉と腐った肉の区別は重大です。ですから、「鬱病」や「気分障害」の人が、「想像の羽を羽ばたかせて天国に行ったりするわけにはいかない!」と主張するのは、それなりに理に叶ったことなのです。

「よい思い出なんかなかった」と言う人もいるでしょう。(作ってしまっても、いいのですが)。また現実に次のように言う人がいたのですが、「良い思い出も、後から考えてみれば、悪い出来事だった」と言う人は、もっと多いかもしれません。良い気分だろうと、ポジティブな発想だろうと、それを押しつけることは、どうやってもできないわけです。

病気であり続けようとする人を(それがすなわち病気だとも言えるのですが)、ムリヤリ病気から引きはがす(あるいは、一種の誘導によって引き離す)のが、心理療法家という人のやっていることだと私には見えるのですが、これには肉体的な医家の苦労とは、また違った苦労であることでしょう。

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017 『なぜか、「仕事がうまくいく人」の習慣』

ケリー・グリーソン 楡井 浩一
PHP研究所 2003-04-02
おすすめ平均
少なくとも探し物をする無駄な時間はなくなりました
多大な影響を受けました\(^◇^)
習慣を変える事
やや冗長的
やるべきことに心を奪われて時間を空費しない

by G-Tools , 2006/04/29

書籍紹介です。この本のいいところは、モチベーションに簡単に点火してくれるところです。

この本に書いてある「方法」は、実のところまったく「方法」ではありません。「すぐやれ!なぜならすぐやるのが最善だからだ」という一文で要点をまとめられてしまいます。あくまでも参考にとどめておいてかまわないと思います。しかしこの本は要点だけを読んでもなんにもなりません。本を読めば「その気」にさせるようなことが、たたみかけるように書いてあるからです。

ただし、「すぐやる方法」が書かれているとはいいがたいものの、「やってはいけないこと」はたくさん書かれています。その一つにたとえば「優先順位を付けてはいけない」というものがあります。方法論としては問題もありますが、気を取り直して仕事に取り組むには取り込みやすい文章です。

優先順位をつけることで、仕事の生産性があがり、よい結果を残す場合もあるだろう。とはいえ、最終的な成功とは、仕事を終えることから生まれるのだ。「それができないのは、やらないから」。そんな例があまりに多い。すぐに行動を起こさないからだ。

 実際、優先事項とは、何かをやらないための都合のいい言いわけになりかねない。たしかに、“すぐにできない”ときがあるだろう。“すぐやるべきではない” ときもある。ここで、判断力が必要になる。“見境なく、何でもすぐやる”では、仕事の能率は向上しない。だが、あなたの仕事への取り組みが、いつもえり好みをし、いつも優先づけをし、いつも機が熟すまで待ち、いつもあとで見直すと、言いわけをし、いつも書類をぱらぱらめくったり、Eメールを念入りに読んだりしていることだとすれば、それを仕事とは呼ばない。

こういった言葉が私をときどき勇気づけてくれます。飽きるほど読んではダメです。「馴化」で効果が薄まってしまうからです。

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