旧ライフハック心理学

心理ハック

モノではなく価値を認知するということ

2009-01-12の続きになりますが、J・J・ギブソンが言うように、意味や価値をイスなどの外部の対象に「与える」のではなくて、外部のほうに意味や価値があらかじめ備わっていると考えると、どういうメリットがあるのか?

たとえば、「何を持ってイスとするか?」ということを、特徴やモデルなどに求めずとも、「イスとしての価値を提供してくれるかどうか?」という観点でとらえることができます。イスとは、座りたいという欲求を覚えたとき、価値があると思えるモノや場所などのことです。座ることができるなら、地べたもイスになりますし、階段もイスになります。

「あれをイスにしよう」とか「あれを台にしよう」などということがあります。この考え方に従えば、イスや台とはよく定義された一定の範疇内にある物質のことではなく、必要な価値を提供(アフォード)してくれる環境なら何でもよいわけです。

現段階で、ロボットに人並みの「認知」が難しいのもこれでよくわかります。何と言ってもロボットは、「座りたい」とか「すっきりしたい」とか「きれいにしたい」などとは少しも感じませんから、環境世界から価値を引き出せないというか、引き出そうとしないのです。そういう場合、動物や人間には自然な認識が、不可能同然になるわけです。

このようなギブソンの考え方を、ドナルド・ノーマン(D・A・ノーマン)がやったように、拡大解釈していったのは自然な流れというものでしょう。座りたいという欲求が、環境に「イスの価値」(イスと言葉で認知できなくても腰掛けることで)を見いだすのならば、そこから「利用可能性」や「価値の優劣」といった話になっていくはずです。つまり、「使いやすい道具」=「価値を引き出しやすい環境」という図式で、デザインの善し悪しを判断するというわけです。

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価値は「外在」する。アフォーダンス

「アフォーダンス」という概念について、私も時々取り上げてきたのですが、これをとりあげるのは「ライフハック」ととてもいい関係にあると思うからです。

そもそもアフォーダンスというのは造語であり、生みの親はジェイムズ・ジェローム・ギブソン(以下J・J・ギブソン)という認知心理学者です。天才的といってもいい人で、もっと知られて欲しい人ですが、日本では認知心理学か、デザイン関係の世界でなければ、あまり聞かない名前です。

アフォーダンスの考え方は単純で、しかも常識的なものです。

環境は、私たちに、意味や価値を「提供」する。英語で言うと「アフォード」する

なぜこれをあえて「概念」としてとらえる必要が出てきたかというと、認知心理学の世界では当時、逆の発想が優勢になっていたからです。つまり、「意味や価値」というものは、私たちの「心的世界」によって与えられるものだ、という考え方が主流にあったのです。

つまり、極端に単純化していえば、ギブソンの唱えたのは、私たちの外部に、意味や価値がある、ということ。
それまでの主張というのは、私たちの内部に、意味づけや価値づけをする機能がある、ということ。

こういう議論にあまりなじみのない方は、そもそもこういうことを主張しあうことの価値について、疑問を感じられることでしょう。哲学ではしょっちゅうやり合っているようなことですが、心理学でなぜこれが問題になるのか?

たとえばOCRという機能があります。新聞や雑誌をスキャナやデジカメで写し、その「絵」を「文章」として認識させる。その際、「頭がいいはず」のコンピュータが、なぜかろくでもない間違いをよく犯します。たとえば「加工」が「カロエ」になってしまったり、「死人」が「1タヒん」になってしまうのです。

このように、機械に現実の文字を認識させるということは、かなり至難の業です。しかし、文字などという、機械がいかにも得意そうなことで失敗するなら、「ゴミの片付け」とか「食事の支度」などを機械にさせるなど、とてもできそうにありません。「それは床に置いておくもの」「そっちはゴミとして捨てるもの」の区別を、「加工」を読み間違えるレベルの頭脳に任せるのはいかにも心配です。

そこで人は考えます。なぜヒトはこんなにも頭がいいのか? ヒトは「ミミズののたくったような字」ですら判別してのける。その「認知能力」や「判断力」はどこから来るのだろう?

しかしとりあえず、ヒトの究極の認知能力がどうなっているかなど、1950年代から1970年代あたりにはどうにもよくわかりそうになかったので、とにかく「マッチングさせる」という誰でも考えつきそうな発想で出発することになります。簡単に言えば、「「カロエ」はないが「加工」はある!」と、コンピュータに覚えさせていくのです。こうやっていけば、コンピュータは記憶容量の限界まで賢くなっていき、「何があって何がない」かは判断できるようになります。どちらもあるものなら、確率で判別させる。

当時コンピュータがとても魅力的に見えていたこともおそらくあって、人間の認知もコンピュータ式にとらえるというモデルが、とてもはやっていきました。記憶モデルなどについていえば、いまだにそうです。つまり、コンピュータにも「内部モデル」があって、「外部の認識」はその「内部モデル」を参照してマッチングするという方法をとっているように、人間の認知も、「心的世界の内部モデルにもとづく」という風に説明されていたわけです。

そりゃ、絶対おかしいだろう、と何となく私でも思います。そんな方法では、すでに知っていることが膨大になければ、何も認識できないことになるし、言葉を持たない動物の認知はどうやって説明すればいいのか、おかしなところがたくさん出てきてしまいます。

そして例の「イス」の議論になります。
ヒトはなぜ、イスをイスとして認識し、判断できるのか?

内部モデル的に説明するなら、「イス」は「目の外」にあります。外部の光が目の中から網膜に入ってきて、脳内に「イスのイメージ」が形成されます。その「イスのイメージ」とよく似た「内部モデルのイス」をマッチングさせ、そんなにずれていなければ「イスだ!」と判断できることになる。プラトンのイデア界にも似た内部モデルの世界があるわけです。

ここでやっとJ・J・ギブソンが登場するのですが、やや長くなってきたので続きは明日以後に。

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脳はパターンを把握する

昨日の続きです。

「縮退」という機能を持っている脳が、何と言っても得意そうなことは、パターン認識です。もちろん、コンピュータのように、数列のパターンを一瞬にして認識する、というような芸当は、あまり得意でない人が多いでしょう。しかし、長く経験するうちに、経験の中に様々なパターンを認識していくのは、人の得意とするところです。

数に限りのあるニューロンで、無限の現実体験に適応し、しかも「自分自身」を保ったままにできるのは、こういう能力の発露に他ならないでしょう。パターンの認識には自覚のない人もいるでしょうが、無意識のうちにもパターンは認識されていきます。最近になって引っ越したので、私はこのことを連日感じています。

仮に現実にパターンが実在していたとしても、私たちが新しい現実に接するたびに、新しいニューロンで対応していたのでは、パターンを把握している実感を伴わないでしょう。その前に、そういうやり方だった場合、「自我の感覚」というものを持てないでしょう。脳の働き方からして、「全く同じ自分」というものには二度と出会えないはずですが、にもかかわらず「自我同一性」というものが、夢体験の後にも失われないのは、新しい経験に対して、いちいち「自分のパターン」を照応させているからだと思われます。

というわけで、新しい体験はたいてい、非常に取っつきにくいものです。アラビア語に縁のない人にとって、アラビア語で書かれた本には、とりつく島が感じられないものです。そこにとっかかりを得るためには、どうしても、自分がすでに持っているパターン認識の方法を、適応させなければなりません。語学なら、それが「文法」というわけでしょう。

これほどではありませんが、「新しい著者による処女作」は、たいていの場合読みづらいものです。やはり私たちは、読書もまた「パターン認識」によっているのです。新人著者さんの本を読むためには、誰か他の人の本の書き方から、類推したパターン認識をする必要があります。一応「ジャンル」というものがありますので、新人でも「ビジネス書」なら、「ビジネス書のパターン」というものを当てはめることで、多少は負担を軽減できます。

というわけで私は、一つの読書法として、ただ淡々と多読する、というのもいいのではないかと思っています。人間が書くものですから、誰が書いてもそこには一定のパターンというものがあります。ビジネス書ならビジネス書で、文学なら文学で、相当数を読破すれば、脳が「全体的に共通したパターン」を把握するでしょう。そうなれば、自動的に読書効率と読みの深さの両方に、突破口が開けると思います。

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ニューロンのリサイクリング 

あけましておめでとうございます。

2009年の最初のテーマは、「自然は節約家である」というあたりから行きたいと思います。
『プルーストとイカ』という変なタイトルの、神経学的読書論によると、フランスにはスタニスラス・デハーネという神経科学者がいるそうです。

http://www.unicog.org/main/pages.php?page=Stanislas_Dehaene

この人の研究が、次の通り紹介されています。

たとえば、彼が行った霊長類を対象とした研究では、一枚には二本、もう一枚には四本のバナナを盛った二枚の皿を一頭のサルの目の前に並べたところ、サルが気前よく盛られた皿に手を伸ばす直前に、その後頭葉が賦活したことが確認されている。私たち人間が現在、数学の演算の一部に試用している脳の領域の一つも、この同じ高次脳領域だ。同じく、デハーネの研究チームが主張するところによれば、私たちが読字の際に単語を認識できるのは、人類の進化の過程で早く生まれた、物体認識を専門とする回路を使用するからである。私たちの祖先が自分を餌食にする捕食動物と獲物とを一目で区別できたのは視覚を特殊化する生来の能力のおかげであったように、現在の私たちが文字や単語を理解できるのは、それにも増して天性のものと言える“特殊化した能力をさらに特殊化”する能力のおかげであるらしい。
p28

一部を引用するには内容が込み入りすぎていますが、視覚と単純に結びつく「風景」と、「価値判断」をする脳領域が意味のある結びつき方をしないと、なぜバナナが4本の方をさっと選び取るか、説明が付かないということになるでしょう。

このように、既存の機能を何らかの方法で「結びつける」ことで、大変実り豊かな成果を生み出すことができる、というのが、「デハーネの研究チーム」が示唆していることのようです。この話を読んで私がすぐ連想したのが、『脳は空より広いか』にあった「縮退」という言葉です。

すでにあるものを他の用途にうまく活用する。そういうことを脳が好むからと言って、すぐにどう役立てたりできるかはわかりませんが、人間もそういうことを「好む」ということはありそうな気がします。

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