旧ライフハック心理学

心理ハック

第2回MH研究会レポート【Lifehacking.jp】

ウ〜ンさすが、としか言いようのない、すばらしいまとめ。こういう風に展開すればよかったのですね。

第2回来られなかったかたや、行ってみたけど、どうも佐々木が何を言わんとしていたのか、分散気味でよくわからんかった。(もう行かなくてもいいかな・・・)とお思いの方は、ぜひ以下のエントリをチェック。

http://lifehacking.jp/2009/04/stress-and-the-mirror-within/#disqus_thread

ストレスを引き起こす心のなかの独り言と偏り | Lifehacking.jp via kwout

しかし、他力本願過ぎるのもあんまりなので、1つだけ補足を。

セミナーご参加くださる方には先刻ご承知の通り、人の作ったツールなのに、(私の使うツールは100%、人の作ったツールですが)私はタスクシュートにやたらとこだわっています。

その理由を毎日、毎時間(タスクシュートを使っている15時間程度の間は)考え続けているのですが、1つ「先送りと脱線」という件に関して言うと、これは「タイミングをはかれるツール」だからです。

予定表があれば「いつやるか」を教えてもらえるし、タスクリスト(ToDoリスト)があれば「何をやるか」を教えてもらえますが、そのどちらも、「いつそれがやりたくなるか」(そしてやりたくなくなるか)は教えてくれません。

セミナーでは、「渋滞に突っ込む」話をいたしました。私たちは、90%まで、渋滞に突っ込みたくないと思っています。でも突っ込みたいときもあります。10年以上憧れ続けていた人とデート中だとイメージしましょう。渋滞を避けて、抜け道を使ってさっさと帰りたいですか?

タスクはいつも同じように見えるわけではありません。この言い方は正しくありませんね。タスクは、常にちがって見えるものです。かなうなら、もっともやりたいタイミングで、タスクに手がけたいものです。

このタイミングをとらえるのは非常に難しく、モレスキンでもToDoリストでもオムニフォーカスでも、「あれもやらなきゃ、あれもやりたい、あ、あれも」と言うときには、やりたい衝動は心の一点から発散気味で、タスクはどんどん肥大化します。しかし、後ほどその他スクを眺めると、3000ほどあるすべての行為のどれも、全然やりたくなくなっているという、信じがたい心境を内省することになります。私はこうなったことが、10度ほどあります。

要するに本当はやりたくないのか? タスクを紙に書きたいだけで、タスク自体をやりたい気持ちはゼロなのか? 私はなんどかそう自問したこともあるのですが、そうではない。タスクをやりたいときはある。問題はそのタイミングでどうやってタスクをやればいいのか?

タスクシュートはこの問題を、8割解決したという点で、私には画期的なソフトでした。このタスク、今はやりたくない。今もやりたくない。まだやりたくない。まだまだやりたくない。今は?・・・できる。

ここでタスクシュートならではの「代替案の提示と、その場合の時間コストの提示」という機能が力を発揮します。A=×。B=×。C=×。D=×。E=×。F=×。G=×。・・・では、休む。そうなると、他の一切のタスクに手がける時間がなくなるか、終わる時間が遅くなる。それでも。

これを繰り返し、繰り返しやっている知に、心の状態に変化がもたらされます。衝動、意欲、感情、やる気、モチベーション、やりがい、金銭欲、退屈、倦怠、目の疲れ。これらの多くは似たようなものとして一括されがちですが、どれもちがうものです。その組み合わせをいじるうちに、パズルが解けるように、「タスクに手がけたいと思って書き落としたときの衝動」が不意によみがえるのです。

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恥辱に満ちた記憶の粘着力が強い理由

私ももう30半ばを超えたにもかかわらず、いまだに「恥辱に満ちた、あるいは屈辱的な記憶」というものに、少なからず動揺させられる自分を観察して、「ずいぶんとナイーブな」とあきれてしまいます。

ただ、このことは不可解なことだともよく思っていました。幼少期の頃の、「思い出すのも不快な」記憶をまだ保っているとは、どうしたことか。もちろん「記憶はウソをつく」実例からすると、「恥辱に満ちた記憶」が「正確」とも思えませんが、(おそらく大分歪曲されているでしょう)、まるまるアリもしない事実をでっち上げたとも思えません。そこまで「恥ずかしいこと」をわざわざこしらえるというのもどうだろう。

「人はそもそも自分に都合よく考えたがる」という、よく耳にする夏目漱石の主人公のような人間観は、それほど違和感を感じさせないものの、この点では引っかかります。私が自分のことを都合よく考えたがるのは当然として、そのわりに、「屈辱的な記憶」をいつまでも引きずるのは、どうしたことか。「思い出すのも不快な」記憶なら、さっさと消去するなり、抑圧するなりするのが、当然でしょう。その方が「快適に」過ごせるのは間違いありません。

脳がもしも自分に都合のよい記憶ばかりを残すように機能しているなら、すべての人は「子供の頃は最高だった!」と思うはずなのです。でも私は、そうは思っていません。どうも、幼稚園時代に戻りたいなどとは、決して思いません。中年の今は今で大変ですが、幼稚園時代よりははるかにましだという気がします。

それにあの「へこむ」という心理状態。あれにしても、事件が起こった直後からは、記憶の悪さです。「不快な記憶は、自我に快をもたらさないから、削除(抑圧)」という機能がちゃんと働いてくれれば、そうそう長々とへこんでいたりせずに済むはずです。それを半日ならまだしも、翌朝まで持ち越す。人によっては、一週間も。マゾヒズム、ということも考えられなくはないですが…。

今読んでいる『なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか』に、これに関する常識的な見解が述べられていました。以下引用します。

…記憶は、自己像と相容れないような出来事を補完するのがとくに得意だと考えた。そのような出来事は、自己像と現実があまりにかけ離れないようにしているのだ。その意味で、私たちの「最悪の罪」は目には見えない生産性を持っている。屈辱にも同じような生産性がある。(p67)

苦いですが…まあ、なるほどと思いました。自我の現実機能はやはり、私に快感をもたらすだけでなく、自己像と、現実の中の自己とのギャップを埋める必要もありますからね。

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においの記憶

言葉というものは、私たちの脳の有り様を、かなりよく反映しているようです。
このことは非常に多くの単語において、人間の「視覚優位」を強く現していることからも分かります。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。いわゆる「五感」すべてに刺激を与えてくれるものというのは、探すとなかなか見つかりませんが、たとえば「水」。目に見えるのはもちろん、「水の音」や「水の手触り」、「水のにおい」「水の味」など、一応五感への刺激がそれぞれ意味をなします。ちょっと振り返ると分かるとおり、水は明らかに例外的です。

私たちの情報入力は、あまりにも視覚に頼っているため、基本的に刺激の形容は、「目に見える」ものの名前ばかり利用します。オレンジ色、水色、そらいろ、茶色。「赤」や「青」は全く例外的ですが、これらが結構豊富にあるのも、視覚情報のすごいところ。聴覚情報になると、こういうのはがぜん減ってしまいます。

「音色」という言葉こそありますが、その色の中身は言葉では識別が難しい。「黄色い声」はありますが、「赤い音」とか「青い音」となると、なにやら文学的で意味不明。それでも音は、「ざわざわした音」や「つんざく音」や「悲しい声」など、ものから切り離された形容詞が結構ありますが、これが「におい」となるとますますその数が減ります。

「リンゴのにおい」とか「トイレのにおい」とか「塩素のにおい」などは、ただものの名前を付けただけ。「つんとくるにおい」とか「いいにおい」とか「イヤなにおい」など、いちおうものから切り離された表現はあるものの、これらは刺激の強弱、好悪について評価しているに過ぎません。「イヤなにおいが好きな人もいる」というのは、「赤色が好きな人もいれば、嫌いな人もいる」というのとは、全く違います。

その理由は、嗅覚が基本的に原始的な感覚で、言語野と直接の結びつきがないからです。嗅覚は記憶に深く関わる海馬や、辺縁系など、記憶と感情に関わる脳部位とダイレクトにつながっています。認知を統合するときに、言語記憶や視覚情報と一致させることはできても、(これは子供の頃に遊んだプールのにおいだ)においそのものを抽象化するのは、難しいのです。

しかしだからこそ逆に、においの記憶というものは、あるいはにおいを想像するということは、言葉を介在しない記憶というものを考える上で、有益な情報となるかもしれません。『なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか?』には、この点について読者に注意を促しています。

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なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか?

タイトルからしても魅力的だが、冒頭の数章を読んでも、タイトルの疑問への答えはいっこうに提供されない。にもかかわらず、そこがあっという間に読み進められてしまう。非常に面白い本。

まず、冒頭の2章では、ひたすら記憶の話が展開される。それも、幼少時の記憶の話。当然フロイトに絡んでくるのだろうと想像がつくが、案の定で、フロイトが「幼児期健忘」の事実に着目したことと、それをどう料理したかの話をちりばめながら、幼児にとって「記憶」とはどんなものであるかを、いろいろな角度から面白く説く。

読者にとって、最古の記憶とは何だろう? またそれは、何歳の頃の記憶だろうか?

この2つの問いは、いろいろな意味で面白い絡み方をする。ちなみに私にとって、一番古い記憶は妹が生まれた時の記憶。私が2歳の頃の出来事だった。もっともここにまず問題があって、私が自分が2歳で、妹が生まれたのだと、当時認識していたとはとても思えない。だから、そのことは後から聞いたという可能性が大いにある。

となると、エリザベス・ロフタスの「思い出されたウソ」の問題を思い出さずにはいられない。私の最古の記憶は、本当に私が二歳の時の、妹が生まれたときの記憶なのか? それとも、それを後から母親から聞いただけなのに、自分の最古の記憶だと思い込んでいるだけのことか?

確実な証拠は何もない。あるのは、どうも病院には父に車でつれられて病院へ行った記憶はあるような思い出。行った先は「佐々木小児科」という、私と同じ名字の病院だったような曖昧な記憶。雨が降っていて、ワイパーが動いてような印象。(当時私がワイパーが大好きだったようだ)。「妹」という認識は、もちろん全くなかった。母が「最近見あたらない」のが少し気になっていたように思う。(当時私は、母に四六時中まとわりついていたようだ)。

これだけだと、「作られた記憶」である可能性が十二分にある。ただ、本書によると私にちょっとした有利なデータもある。別に有利でも不利でも何ともないが、統計によれば、「最古の記憶の多くは、兄弟の誕生」であり、「2歳の頃が最古の記憶」という人は多い。この記述からすれば、私の最古の記憶に、それほど特異な要素はない。というよりも典型的だ。ひとまず安心だ。

しかしフロイトによると、なぜ幼児がこうも「何もかも忘れてしまう」のかと言えば、「記憶を抑圧するから」。フロイト得意の「抑圧」だ。なぜ抑圧するかと言えば、「恥ずかしいことだ」から。「思い出すのもおぞましいこと」だから。そのため、「どうってことのないことが思い出される」のである。どうってことのあることは、「思い出したくないから記憶喪失の対象」になる。だから幼児の頃の思い出と言えば、家の垣根にバケツが投げ捨てられていたというような、なぜそんなことを覚えているのかというほど、「覚えておく価値のないこと」ということになる。フロイトによれば。

精神分析の父として、最近流行の言葉で言えば、フロイトに対する「リスペクト」はおいておくとして、自分のことを振り返る限り、どうもこの「解釈」はやはり信じがたい。多くのフロイト反対派同様、私にも信じられない。「妹の誕生」は「どうってことのないこと」ではないし、幼児期に体験した「イヤなこと」や「いたいこと」や「恥ずかしいこと」もよく覚えている。一方で、もう引っ越してしまった青森県むつ市にあった家のドアの色とか、そういう「どうってことのないこと」は全然思い出せない。

つまり、自分のことを振り返る限り、記憶に関する私の頭の働き方は、至って常識的で平凡だ。怖い目にあったことを、覚えておく。なぜなら、ネガティブな体験にあわないようにするため。恥ずかしいことを体験したら、覚えておく。なぜなら、そういう未来を避けるため。生物として、そういう戦略は妥当だろう。思い出が暗くなりがちだが、それは副作用に過ぎない。私の思い出を明るくするためばかりに、脳は働いていないのだ。

というような話で、冒頭2章は費やされている。ほかに、エビングハウスやゴールトンなど「記憶研究の元祖」たちのエピソードも面白いが、「なぜ年をとると時間が経つのが速くなるのか?」という疑問は、全く明らかにされない。この先の章に期待である。

ちなみにこのテーマについては、以下のような本もある。

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メタ認知を起こす

これはいいですね。ネタ同然ですが、いかにもマインドハック。

ただし、思わずダラダラしてしまわないように、ユーザー名とパスワードは自分を戒める言葉にしておきましょう。例えば、新しく作るユーザー名を「こんな余裕はないよね」にして、パスワードを「仕事に戻れこのバカ」とか「このダメ人間が」なんて組み合わせにしておけば、相乗効果でかなり自虐的に自分を律することができますよ。

http://www.lifehacker.jp/2009/04/post_688.html

よく思うのですが、私たちは自意識を持っているし、それを意識するのも難しくはないし、(そのカラクリを理解するのは難しいですが)、自分の性質を見つめたり、それを律しようとすることもできます。

しかし、ずいぶん強い自意識を持って、時にはやっかいだくらいに思っているわりに、自己意識を容易に見失います。自分は今、どうしてこんなことをやっていたんだっけ?という状態に、いともたやすく陥るのです。

私はタスクシュートを毎日欠かさず使っているので、そのことがよく分かります。「今やっていること」から簡単に外れて、外れた後に「はっ」と気がついたときには、今本当は何をやっているべきだったのかが、思い出せなくなっているのです。ネクストアクションを思い出すなんてとても無理。ドゥーイング・アクションすら思い出せないのですから。

「こんな余裕はないよね」

と自分で打ち込んで、ネットサーフィンして遊ぶ。こんな方法ですら、きっと習慣化すれば、気にもとめなくなるでしょう。それでも、少しは「覚醒効果」が期待できるような気がします。いい方法だ。

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