旧ライフハック心理学

心理ハック

034 イナーシャ

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朝目覚めたばかりという瞬間をのぞけば、私達の生活時間におけるどの一瞬を切り出してみても、それは何かしらの流れの中にあります。

この意味で私達は、“完璧な自由意志”をおそらくは持っていません。それまでの時間や記憶に全く何の関わりもなく、純粋に唐突に、「何か」を意思することはたぶん不可能です。私がかなり突拍子もないことをしようと思っても、その「思う」内容は何らかの形で過去の私の状態に掣肘されます。すなわち意思することの領域が事前にある程度は、制限されているわけです。

「やる気とグズの問題」は実のところ、この「自由意思」の問題と深く関係があります。なぜならそれまで何をしていようとも、塩センベをつまみながらお茶を飲んでいようと、クイズ番組に熱中していようと、昼寝をしたばかりだろうと、とにかくいきなりそれまでの流れを断ち切って、「スパッと」仕事に取りかかるという問題と関連があるからです。

当然その直前には「仕事に取りかかるぞ!」という意思を「思って」います。

しかし「意思」はその前段階の過去の活動と記憶による脳内状況に、ある程度は制限されます。その制限付きの“自由意思”なのです。

こんな話があります。脳の前頭前部、および前頭帯状回という、注意や責任や意思を司る部位が活性化すると、θ波(Fmθ)が検出できるようになる。それに伴い、脳の別の部分のアルファ波が、抑制される。そうなるのは、ある特別な対象に注意を強めたり、その対象への注意を保持したりするために、邪魔になる脳内活動を鎮静させる必要があるからだと。

この実験自体の可否についてはいろいろな議論がありそうです。私は認知神経科学の「実験事実」には実はあまり興味を持っていません。「注意や責任や意思を司る部位」なんて誰もがそうだというコンセンサスが取られているのか疑問に思います。でも大切なのはこういう実験をしている人の「意思」でありこういう実験とこういう解釈をどこかで誰かが書いていることなのです。

「ある特別な対象に注意を強めたり、その対象への注意を保持したりするために、邪魔になる脳内活動を鎮静させる必要がある」という発想は、ある時点における心理の自然な流れから、おそらく生じているであろう脳内活動の、いわば必然の流れを強引にせき止め、自分の都合のいい脳内状況を作り出すことが、“注意”に「必要だ」という発想があるからでしょう。

「注意や責任や意思」を司る部位がなんだろうと、前頭前部だろうと他の箇所だろうと、心理的に影響を与えるのですから、なんらかの「エネルギー」と時間が必要です。それまでは活性化していなかった脳のある部分を活性化させ、それに邪魔になる部位を寝かしつけ、思い出すべきものを思い出し、ようやく“準備完了”となるわけです。この、脳内の「フルーツバスケット!」が一段落するまでに必要な労力と時間を、野口悠紀雄さんは「イナーシャを乗り越える」と呼んだのだと思います。

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033 人の心理を「読む」ということ

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『暴力から逃れるための15章』に登場する、ケリー(もちろん仮名)というレイプの被害にあった女性のことを、このブログの中でお話ししました。彼女は被害者にはなりましたが、登場するレイプ犯に殺されてしまった他の被害者とは違って、殺されずにすみました。

なぜ殺されなかったのかが非常に大事です。ケリーは、ただ単に運がよかったから殺されなかったわけではないのです。

男は「こと」がすんでから、こう言いました。

「もう行かなきゃな。おい、そんなに怖そうにするなよ。もうなにもしないから」

この言葉を聞いて、ケリーは慄然としました。「殺される!と直感した」のです。これが、「恐怖の贈り物」という本書の原題に通じるテーマなのです。ケリーは不思議なことに、3時間に及ぶレイプの間中感じなかったこと、すなわち「本当の恐怖」をこの時初めて感じたのです。

なぜケリーは上の言葉を聞いて、そんなに恐ろしくなったのでしょう?彼女の直感は正しかったのです。確かに男はこのとき、ケリーを殺すことに決めていました。

犯罪者や犯罪的傾向にある人、および虚言癖のある人というのはやたらと「約束」を振り回すという性向があります。したがって「担保のない約束」を連発する人に対しては、とりあえず警戒する必要があります。少なくとも知っておいて損のないことです。

普通の人でも嘘を言っているときほど、「約束する」「本当だよ」などの言葉を数多くしゃべってしまうものです。(ちなみに私自身はある種の警戒信号を感じたときには、この種の言葉を何回聞いたか数えるようにしています)。

未来についてのこと、ことに、未来に関する重要なことをしゃべる際には、いささか心許なくなって「たぶん」をつけてみたり「分からないけど・・・」などとついいってしまうのが、普通の人の普通の態度なのです。「・・・かもしれないけど」「・・・と私は思う」なども同類語ですね。

レイプ犯はこの後も、「ここでじっとしていろ。水を飲んでおさらばだ。約束してやる」などと言います。この「約束」を違えても、男が支払わなければならないような犠牲は、何もありません。これはいわゆる、言葉だけの約束なのです。そして男は、立ち上がり、窓を閉め、ステレオの音量を上げてから、キッチンへと向かいます。

殺害計画前にこれらの行動に出たわけは、

1.窓を閉めて、悲鳴が外に漏れないようにした
2.ステレオの音量を上げて、悲鳴が聞こえなくなるようにした
3.銃を使うと銃声がするので、包丁で殺すために、キッチンへ向かった

これらのシグナルを全部見落とすとしたとしても、まず普通と言っていいでしょう。しかしケリーは見落としませんでした。彼女は、犯人の真後ろから音も立てずにぴったりと付いていって、玄関から一目散に逃げ出しました。それで助かったのです。男は油断していました。

レイプの前からずっと、ケリーは男の言いなりだったので、「動かずおとなしくしていろ」という命令を、無視するとは思わなかったのです。

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032 毎日体重を記録するとダイエットが快感になるワケ

以下は『アエラ臨時増刊号』(4/5号)の、脳研究に関する記事の引用からです。今となってはかなり古い号です。


――ティーンエージャーの観察から、研究課題を思いつかれたとか。

 現代の若者はなぜあんなに、映像や音楽にはまるのか。メシを抜いて1日10時間以上、テレビゲームをやっている子がいる。

ゲームを取り上げたら、今までおとなしかった子が家の中で暴れ出したとか、親と口をきかなくなったという話も聞く。聞いたり、見たり、つまり感覚や知覚することに「快」を感じているのでしょうが、この快はどこからくるのか。これは大きな謎です。

古典的な心理学では外からの報酬と結びつけて説明されてきました。簡単にいえば、えさ。(中略)

でも、1日に20時間音楽を聴いている子は、ごほうびを期待しているわけでなく、逆にしかられるでしょう。

――従来の考えでは説明できない。

 ではどう考えるかというと、行為そのものが快ではないか。どうみても。現代人の生活は知覚すること自体の快という方向にどんどん肥大化しているとしか思えない。
(SIENCE AERA アエラ臨時増刊号 No.19 4/5号)


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1日に10時間もテレビゲームをし続けるという行為が、はた目に異常に見え、好ましくないと思われるのは、そうかもしれません。しかしそこに「快」があるということは、それほど大きな謎でもないように思えます。

「テレビゲーム」というものは、挑戦を克服するような作りになっています。さらには、謎解きの要素もある。眠くて眠くてしょうがないのに、続きが気になって、推理小説に没頭し、夜明けを迎えるようなものです。そういう意味で、テレビゲームを10時間もやり続けるということは、「知覚すること自体の快」ではないと思うのです。

テレビゲームには、ストーリーがあります。自分が主人公になって、魔物と闘い、財宝を得て、それを売買し、新しい魔法の薬を見つけ、さらに危険地帯へと進み、お姫様を救出し、謎を解き、悪のドラゴンを倒す。そこには、かなりはっきりとした「上昇物語」があり、ゲームプレイヤーの個性に応じた(実人生に比べてどうしてもバラエティに乏しいのが欠点ですが)「成長物語」があります。

もちろん、ふつうの人は十時間もやっていられません。勉強も仕事もあれば、他の楽しみもあるでしょう。しかし、どんな時代にでも、「一風変わった人」というのはいるものです。たとえば、これが明治時代なら、「テレビゲーム」はなかったでしょうが、かわりに「道楽」というものがありました。1日の大半を俳句に費やしたり、ラテン語に費やしたりして、過ごした人もいたでしょう。

彼らは、「無駄飯食い」と非難されたかも知れませんし、「教養人」と賞賛されたかもしれませんが、いずれにせよかなりの程度、変わっていると思われていたことは、たしかでしょう。でも、ラテン語や俳句に、1日の大半の時間を費やす「快」はどこから来るのでしょう? 答えがなんであれ、それに対して、「知覚それ自体の快」などというのは、答えになっていない気がします。

むしろ私には、ビジュアルやオーディオの「知覚」よりも、自分の育てている「ロボット」の成長を、人は喜びをもって迎えるという気がしてなりません。俳句なら俳句に「生き甲斐」を見いだしている道楽者というのは、ふだんは「偏屈おじさん」くらいで片付けられていますが、好んで偏屈を通しているわけではなく、「趣味」であるところの「俳句」について喋らせると、とどまるところを知らなかったりします。

だれもが、自分の「ロボット」、特に非常に優秀になった、いつも使い込んでいる「ロボット」のこととなると、まるで初孫のように語りはじめます。ふだんそうしないのは、聞き手がいい顔をしないからです。車好きが、自動車のことについてしゃべり出すと、何日あっても足りないように見えますが、聞いている方は、興味がなければ、三分だって我慢がならないような顔をします。これでは、「偏屈」になるのも、やむを得ないでしょう。(ちなみにだからといって車好きの自動車話を擁護するつもりはありません。私はあれの被害者になったことが何度かありますが、好意的に言っても忍耐が必要な体験でした)。

人間は、自分の中の「ロボット」の成長を自覚するのが大好きなのです。ただし一般的に「ロボット」の成長は、初めのうちこそ急でも、しばらくするとその成長率を格段に下げることです。テニスも、やり始めて半年くらいは、日を追うごとに上達しますが、十年もたつと、日々成長するというわけにはいかず、悪くすると、やればやるほど下手になるような時期すらあります。

ただし個人差があります。「ロボット」の成長に、驚くほど熱心な人もいる一方で、あまり「ロボット」の成長に興味を抱かない人もいます。「体育会系的気質」の人は、「ロボット」の成長それ自体から大きな「快」が得られるようです。

この「体育会系的気質」、「ロボット」の成長に異常な喜びを感じられる人には、ある種の危険な傾向が見られます。これらの人は、自分自身の「ロボット」が「客観的」に成長しているという実感が得たいので、「数字」が好きなのです。「筋肉トレーニング」と「体脂肪率」に驚くほど執着できるタイプです。

こういった人たちは、現代社会で賞賛されやすいですし、何でも成功しやすいことは事実です。TOEICの得点でもいいのですし、ダイエットで減っていく体重でもいいのです。貯金額でもいいでしょう。貯金をふやすのにどんな「ロボット」が?と思われるかも知れませんが、やってみればすぐにわかります。「目的」を達成しようとすれば、人は自分の行動パターンについて、非常に自覚的になれるのです。

自意識は、自分の生活の中から、特定の行動をパターン化し(ある種の買い物を避け、避けられない買い物は最安値をネットなどで探す)パターン化した行動についても、より効率的であるように意識を働かせます。その行動パターンは徐々に、自意識の領域から無意識の領域へと移され、余力のできた注意を、さらに「節約」へと向けます。この一連の認知行動を可能にするのが「ロボット」なのです。「節約ロボット」は厳然と存在します。

これのなにが危険かというと、「ロボット」というのは、人が思う以上に「成長」できるので、「完璧主義」と「強迫神経症」が「ロボット」の成長に常につきまといがちなのです。数値が下がる喜びに巻き込まれるようにして、拒食症に陥る例は、アメリカでイヤというほど見てきました。「完璧に掃除をしたい」という欲求は、部屋のホコリを一瞬にして見抜く「ロボット」を完成させます。

「危険」ということはありませんが、TOIEC990点、TOEFL660点、英検一級という人の話は、私にはそれほどうらやましくは聞こえず、長時間聞きたいものでもありません。私だけではなく、そう思う人が多いからこそ、「英語の達人」は苦労話の「聞き手」を探しているような気がします。

つまり「テレビゲームを十時間も続けていても、叱られるだけで、現実のメリットなどありえないのだから、そこから快楽を得られるというのは謎だ」というのは、おかしいと思うのです。「ロボット」の成長それ自体が、大きな「快」なのです。それが、現実の利益になるかどうかは、ある種の人にとってはどうでもいいことなのです。

英語のように、実益のための学問であっても、実際には「ロボット」の成長から得られる快楽の方が大きく、だからこそ「テスト」という「数値」を追求するようになるわけです。このことはもちろん、ある程度使い込んだ「ロボット」は「飽き」をもたらしやすく、その原因のひとつには成長が止まるからなのですが、その「飽き」を払いのけてなお「ロボット」を成長させるための、心理的な工夫が「テスト」だとも言えるでしょう。

つまり「ロボット」の成長は、一定段階に達すると、主観的にはわかりにくい領域に達します。そこで「客観テスト」という方法を用いて、確かに成長しているのだという実感と、それによって得られる成長動機を確保し続けるわけです。

とはいえ体重や体脂肪率といった「数字」を使って、「食欲を抑圧するロボット」を「成長」させるのは、ほどほどにしておくべきでしょう。それらが成長しきった先には「拒食症」しかありえないのですから。

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031 相手がいる場合

たとえば、ピアノを弾くのを覚える場合についていえば、ピアノの正しい指使いが出力パターンである。

それをまちがえるのは、小脳に正しいパターンが記憶されていないからである。そこで練習を繰り返してまちがえるたびにシナプス結合を変えて正しいパターンに近付けていけぱ、やがていつでもまちがいなく弾けるようになるというわけである。

『脳を極める―脳研究最前線』立花隆著 朝日新聞社

以上は、あくまでも「相手」がいない場合です。ピアノや自転車ようなものなら、ある程度弾けるようになり、またとにかく乗れるようになればいいのですが、これが、サイクリング・レースとなればそうはいきません。「ただ乗りこなすことが出来るが、試合ではいつもビリ」は「成功」とは言えません。「失敗」とみなされます。

しかも試合ではただ失敗を繰り返せば、いつしか「失敗しなくなる」=優勝する、というわけにはいきません。ここが、手続き記憶を形成すればいいだけの場合に比べ、競争の難しいところです。

ところで、この失敗をフィルタアウトして成功に導くという戦略ですが、ことが試合や競争となると、むしろ失敗を山のように繰り返すことで、失敗のパターンを「見える化」するのが第一歩となるのでは、と近頃思うようになりました。

テニスなどをやっていると常々意識させられることですが、いつもいつも同じタイミングと流れの中で起きる失敗、というものがあります。「ああ。前にやられたことと全く同じ事をやっている!」と、失敗する前から感じるわけです。それも、2度や3度ではありません。数えてはいませんが、たぶん、1000回は繰り返しているでしょう。スキーなら、明らかに「失敗の文脈」にある失敗を、少なく見積もっても私の場合、10万回は繰り返しています。それでも、失敗を克服できないのです。

よく「変な癖がつかないように、ちゃんと習う」と言われますが、色々なスポーツをやればやるほど、これは嘘だと感じます。この「変な癖」が「失敗への流れ」なのですが、これを繰り返さなければ、普通の運動神経(この言葉は恐ろしく微妙ですが使います)しかもたない私のような人間の場合、高度な技術の成功など覚束ないとしか思えません。

野球などは特にそうですが、内野をやっているとまず必要なことは、玉を怖がらなくなることです。しかし、ボールへの恐怖心をある程度克服するまでに、「変な癖」は絶対つきます。何しろ、無意識にボールをよけながら、なおかつ捕球しようとするので、体勢が滑稽なくらいに崩れてしまうのです。ここで、繰り返し「変な癖」で捕球努力する中で、完全に「変な取り方」を身につけてしまいます。言うまでもなく、これは失敗率が高い。しかし、この段階まで来て初めて、自意識が役立つわけです。

つまり、「あ!この流れで行くと、100%失敗する!」と、1万回の体験から、あまりにも明らかになったので、注意してその流れを、抑制するわけです。これは、小脳の自動失敗抑圧メカニズムとは異なっています。

運動神経が優れていれば、私のような遠回りをせずに済むかもしれません。しかし、たいていのスポーツで、技術の使用場面は一瞬の出来事ですから、「失敗」を「注意」で抑圧するには、時間が足りな過ぎるのです。極端な短時間で、失敗を意識的に抑圧するとなれば、失敗そのものの予測がついてなければならないはずです。失敗を予測するには脳の機能から考えて、失敗が長期記憶されていなければならないでしょう。つまり、「変な癖」が身についていなければ、無理なのです。

以上のことは、相手のいないか、あるいは技術向上を「非常に必要」とはしない運動記憶。すなわち自転車や自動車の運転、タッチタイプでは、それほど「変な癖」が目立たない。

逆に、ピアノのような超ハイレベルな技術、もしくはテニスのような相手のいるスポーツ、ないし、スキーや野球のような恐怖心の伴うスポーツで、「変な癖」がつきやすいことと関係している、いい証拠になっていると思えます。

つまり、タッチタイプや車の運転では、純粋に「失敗抑制メカニズム」で、いつしか「失敗しなく」なりうるのです。しかし、ピアノやスキーで、「失敗しなく」なるには、かなりの失敗が欠かせません。ピアノのような高度な技術では、成功のパターンが狭いために、意識して「これは失敗!」と注意する必要があるわけです。スキーや野球のような恐怖心の克服が必要な場合には、成功・失敗の基準が、2つ出てきます。痛い目に遭わなければ、成功という感覚と、「本当の」成功とです。これも、意識的な要素が必要になってくるでしょう。そして、相手がいる場合です。言うまでもなく、どんなにすばらしいフォームで打てても、負ければ「成功」とは言えないのです。

まとめると、素朴な感覚で言うところの「失敗」を抑圧しただけでは、高度な技芸・恐怖を伴う技芸・相手のいる技芸においては、成功できるとは言えないのです。そのために、失敗をまず身につけ、これを「意識できるレベルで」再現できるようになったところで、意識的な失敗の抑圧が必要になる、という流れです。

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030 記憶の再認とATOK

以前、私はNBO(日経ビジネスオンライン)というところで心理学エッセイを日刊で書かせていただいていました。

この連載では簡単に言って

1.仕事や人間関係の実践的なコツ(21世紀版「生活の知恵」とも言うべきもの)と
2.その「知恵」のバックボーンとなるような心理学的知見を紹介する

という内容のものを書いていました。

つづめて言うと、

「デジタル時代の生活の知恵」 → 「該当する心理学」

という流れのエッセイなのです。私は専ら「該当する心理学」を探す仕事をしていました。たとえば次のような実例を挙げることができます。

ATOK(文章変換機能) → 記憶の再認(該当する心理学)

記憶の「再認」というのは「以前に見た、記憶したものに再度気づくこと」です。初めて見たものを「以前見たことがある」と考えてしまうことは「誤再認」とされます。

ATOKなどの文章変換機能は「再生よりも再認の方が用意である」という記憶の特徴をうまく利用しているやりかです。たとえば私は「朦朧」などという漢字を「書くことはできない」(再生できない)のですが「朦朧」で「正しい」と判断することはできます(再認はできる)。

試験問題でも漢字の書き取りは難しいが選択肢から選ぶ方はできると直感するなら「再生よりも再認の方が容易」という法則はわかりやすいでしょう。

ただしどのような規則にも例外はあります。たとえばふだん会社などでしか見かけない同僚の顔を渋谷でも思い起こすことはできる(再生はできる)ものの、渋谷で見かけても気づかない(再認の失敗)ということはあり得ます。これは「記憶の文脈依存」と呼ばれる効果によるものです。

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