ライフハック心理学

心理ハック

怒りの矛先

やや、マインドハックの範疇から逸脱した話をしますが、(もっとも、このブログにおいてこれはしょっちゅうですが)、「怒りを適切に示す」という昨日のテストは、通常、広範囲に役立つライフハックだと思っています。

というのも、「怒りを表す」というのは、難しい人にとってはきわめて難しいことで、その結果、じつに気を重くさせるような事態を引き起こすことにもなるからです。

私は留学中、精神科医を引退した男性教授から、じつに興味深い「受動攻撃性の患者」の話を聞く機会がありました。受動攻撃性というのは、典型的に見るところでは、次のような態度です。

夫 何を怒ってるの?
妻 別になにも(怒っている)

この程度でも、難しい事態を引き起こします。しかし、人間は知恵にあふれ、感情の動きも大変複雑ですから、これよりずっと複雑な態度と行動でもって、ずっとやっかいな事態を引き起こすこともできます。

その受動攻撃性の患者さんも女性だったそうですが、彼女はアメリカ人が一般にけっこう多用する「アプルプリエイト」(適切な)という単語に病的な嫌悪感を抱いていたところが、まず印象的だったそうです。これだけでも、かなり興味深い話です。

彼女の「攻撃性」は、非常に複雑で、ちょっと話を聞いたり観察したくらいでは、何を考えているのかぜんぜんわからないほどだったと、教授は説明しました。しかし全体を理解して、要約して考えてみると、一貫して気味の悪い心理状態が見えてきたというのです。

彼女の当初の行動パターンは平凡なものでした。ときどき風邪を引くひとり息子の「薬の時間をうっかり忘れる」というものでした。いかにも平凡なこの行動にさえ、「攻撃の意志」が隠れているのだと気づくのに、時間がかかったと教授はいいます。

彼女はそのような「ミス」を犯したことについて、薬を処方してくれた医師などに、罪悪感を訴えました。もちろん医者は、そんなに大げさに考えることはない、などと答えたようです。これ自体はむしろ、つまらないエピソードに過ぎないのですが、かかりつけの医師はときおり、妙に息子の体調が悪いように見えることに気がつきました。「ときどき薬を飲み忘れた」程度で、そんなに体調を崩すはずがないと思ったのです。

そうしたことが何度かあったため、医師が女性を、少し強い調子で問いだたしたところ、女性は目に涙を浮かべながら、実は息子に薬を飲ませ忘れたときに、あとで薬の数のつじつまが合わなくなると自分が責め立てられると思って、忘れた分の薬を一度に飲ませていました、と告白したというのです。もちろんそのことに医師は腹を立て、二度とそんなことをしてはいけない、と言い渡しました。

しかし、この女性の涙は芝居でした。いや、あるいは芝居ではなかったのかもしれないが、わからなかったと、老教授はいっていました。芝居であったかどうかはわからないが、大事な点は、その女性はその後も頻繁に、医師の忠告などにまったくかまわず、「うっかり薬を飲ませ忘れ」「つじつまを合わせるために多めに薬を飲ませる」という行動を繰り返したのです。

かかりつけの医者はとうとう憤慨して、あなたのやっていることは児童虐待だ、調査して息子さんを一時的に保護することも必要だと声を荒くしたそうです。すると女性は、ぜひそうして欲しい。自分は無知で馬鹿だから、子供を育てる資格などないのだと、涙声で訴えたというのです。医師はそこで少し不安な気持ちになって、当時精神科医であった老教授に相談したというわけでした。

この女性の行動は、全体が一つのセットになっていたというのが、教授の結論でした。彼女の行動動機は、怒りでした。その怒りは、自分の夫に向かっていました。その夫というのは、温厚でまっとうで話のわかる高給取りで、一家の生活は中上流のアメリカ家庭といったところのようでしたが、彼女は夫とまったく喧嘩しないのに、激しく憎んでいたのです。というよりも、彼女は夫と喧嘩ができなかったのです。

なぜなら、彼女の言葉を使えば夫はいつも「アプルプリエイト(適切)な側」にいるから、ということでした。たとえトラブルに直面しても、みんなで知恵を出し合って、適切に話し合いをして、適切な行動をとれば、解決できない問題などあり得ない、というのが彼の持論でした。したがって彼女の家には何も問題はなく、少なくとも「解決できない問題」は何もなく、たしかに見た目には何の問題もない、「アプルプリエイトなファミリー」というわけでした。

(この言葉のこうした多様は、日本人の私にすらいかにも不適切なものに思えます。女性はあからさまに皮肉を言っていたのでしょう)。

しかしそうした「解決できない問題が何もない」家にあって、彼女は「不満と不安」を抱えていました。ただしそれを彼女は、自分ではっきりと意識しないようになりました。それは「解決できないもののように思える」としても夫はそうと認めてくれないし、「そんなものを抱えている自分はよほど無力か馬鹿だ」ということにしかなり得ないように、思えたからです。

しかしこれだと、考えようによっては、夫こそが自分を馬鹿で無知だと思わせているようにも、彼女には思えてきました。そのことこそが彼女の怒りの要因になってきたわけで、となると、それを夫に告げてもどうなるものとも思えないし、それをどうせ「適切な解決策」で解決してしまうのだろう。いや、解決した気になって自己満足に浸るのだろう。

それで彼女はこの怒りを抑え込みましたが、実際には、日に日に怒りが強くなっていきました。そして、これも彼女の言葉によると、「絶対にこの怒りをアプルプリエイトに解決されてなどやるものか!」と決意したそうです。それは怒りを外に漏らさずに、夫に手の込んだ復讐を企てるという形になって現れました。

つまり、無知で頼りない母親として、息子の薬を飲ませ忘れ、その代わりに大量の薬を一度に飲ませ、息子の体調を犠牲にして、そのことを医師の前で暴露する。そんな女を妻にしているのが、あの「アプルプリエイトな夫」なのだと、なるべく多くの人に知らせてやろうとしたわけです。

教授はさらに、彼女には「代理ミュンヒハウンゼン症候群」の症状もあったと教えてくれました。つまり、何度かはわからなかったが、息子に毒を盛ったこともあった、というわけです。

私にはこの話、にわかには信じがたく、このエピソードこそ教授の手の込んだ作り話なのではないかと疑念を持ったのですが、ある代理ミュンヒハウゼン症候群の患者が逮捕される瞬間のビデオ映像を見せられたことがあって、人間は、ある意味なんだってしかねないと衝撃を受けた覚えがあります。

同時に、怒りを胸にためるというのは、よくよく気をつけないといけないと考えたものでした。