ライフハック心理学

心理ハック

032 毎日体重を記録するとダイエットが快感になるワケ

以下は『アエラ臨時増刊号』(4/5号)の、脳研究に関する記事の引用からです。今となってはかなり古い号です。


――ティーンエージャーの観察から、研究課題を思いつかれたとか。

 現代の若者はなぜあんなに、映像や音楽にはまるのか。メシを抜いて1日10時間以上、テレビゲームをやっている子がいる。

ゲームを取り上げたら、今までおとなしかった子が家の中で暴れ出したとか、親と口をきかなくなったという話も聞く。聞いたり、見たり、つまり感覚や知覚することに「快」を感じているのでしょうが、この快はどこからくるのか。これは大きな謎です。

古典的な心理学では外からの報酬と結びつけて説明されてきました。簡単にいえば、えさ。(中略)

でも、1日に20時間音楽を聴いている子は、ごほうびを期待しているわけでなく、逆にしかられるでしょう。

――従来の考えでは説明できない。

 ではどう考えるかというと、行為そのものが快ではないか。どうみても。現代人の生活は知覚すること自体の快という方向にどんどん肥大化しているとしか思えない。
(SIENCE AERA アエラ臨時増刊号 No.19 4/5号)


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1日に10時間もテレビゲームをし続けるという行為が、はた目に異常に見え、好ましくないと思われるのは、そうかもしれません。しかしそこに「快」があるということは、それほど大きな謎でもないように思えます。

「テレビゲーム」というものは、挑戦を克服するような作りになっています。さらには、謎解きの要素もある。眠くて眠くてしょうがないのに、続きが気になって、推理小説に没頭し、夜明けを迎えるようなものです。そういう意味で、テレビゲームを10時間もやり続けるということは、「知覚すること自体の快」ではないと思うのです。

テレビゲームには、ストーリーがあります。自分が主人公になって、魔物と闘い、財宝を得て、それを売買し、新しい魔法の薬を見つけ、さらに危険地帯へと進み、お姫様を救出し、謎を解き、悪のドラゴンを倒す。そこには、かなりはっきりとした「上昇物語」があり、ゲームプレイヤーの個性に応じた(実人生に比べてどうしてもバラエティに乏しいのが欠点ですが)「成長物語」があります。

もちろん、ふつうの人は十時間もやっていられません。勉強も仕事もあれば、他の楽しみもあるでしょう。しかし、どんな時代にでも、「一風変わった人」というのはいるものです。たとえば、これが明治時代なら、「テレビゲーム」はなかったでしょうが、かわりに「道楽」というものがありました。1日の大半を俳句に費やしたり、ラテン語に費やしたりして、過ごした人もいたでしょう。

彼らは、「無駄飯食い」と非難されたかも知れませんし、「教養人」と賞賛されたかもしれませんが、いずれにせよかなりの程度、変わっていると思われていたことは、たしかでしょう。でも、ラテン語や俳句に、1日の大半の時間を費やす「快」はどこから来るのでしょう? 答えがなんであれ、それに対して、「知覚それ自体の快」などというのは、答えになっていない気がします。

むしろ私には、ビジュアルやオーディオの「知覚」よりも、自分の育てている「ロボット」の成長を、人は喜びをもって迎えるという気がしてなりません。俳句なら俳句に「生き甲斐」を見いだしている道楽者というのは、ふだんは「偏屈おじさん」くらいで片付けられていますが、好んで偏屈を通しているわけではなく、「趣味」であるところの「俳句」について喋らせると、とどまるところを知らなかったりします。

だれもが、自分の「ロボット」、特に非常に優秀になった、いつも使い込んでいる「ロボット」のこととなると、まるで初孫のように語りはじめます。ふだんそうしないのは、聞き手がいい顔をしないからです。車好きが、自動車のことについてしゃべり出すと、何日あっても足りないように見えますが、聞いている方は、興味がなければ、三分だって我慢がならないような顔をします。これでは、「偏屈」になるのも、やむを得ないでしょう。(ちなみにだからといって車好きの自動車話を擁護するつもりはありません。私はあれの被害者になったことが何度かありますが、好意的に言っても忍耐が必要な体験でした)。

人間は、自分の中の「ロボット」の成長を自覚するのが大好きなのです。ただし一般的に「ロボット」の成長は、初めのうちこそ急でも、しばらくするとその成長率を格段に下げることです。テニスも、やり始めて半年くらいは、日を追うごとに上達しますが、十年もたつと、日々成長するというわけにはいかず、悪くすると、やればやるほど下手になるような時期すらあります。

ただし個人差があります。「ロボット」の成長に、驚くほど熱心な人もいる一方で、あまり「ロボット」の成長に興味を抱かない人もいます。「体育会系的気質」の人は、「ロボット」の成長それ自体から大きな「快」が得られるようです。

この「体育会系的気質」、「ロボット」の成長に異常な喜びを感じられる人には、ある種の危険な傾向が見られます。これらの人は、自分自身の「ロボット」が「客観的」に成長しているという実感が得たいので、「数字」が好きなのです。「筋肉トレーニング」と「体脂肪率」に驚くほど執着できるタイプです。

こういった人たちは、現代社会で賞賛されやすいですし、何でも成功しやすいことは事実です。TOEICの得点でもいいのですし、ダイエットで減っていく体重でもいいのです。貯金額でもいいでしょう。貯金をふやすのにどんな「ロボット」が?と思われるかも知れませんが、やってみればすぐにわかります。「目的」を達成しようとすれば、人は自分の行動パターンについて、非常に自覚的になれるのです。

自意識は、自分の生活の中から、特定の行動をパターン化し(ある種の買い物を避け、避けられない買い物は最安値をネットなどで探す)パターン化した行動についても、より効率的であるように意識を働かせます。その行動パターンは徐々に、自意識の領域から無意識の領域へと移され、余力のできた注意を、さらに「節約」へと向けます。この一連の認知行動を可能にするのが「ロボット」なのです。「節約ロボット」は厳然と存在します。

これのなにが危険かというと、「ロボット」というのは、人が思う以上に「成長」できるので、「完璧主義」と「強迫神経症」が「ロボット」の成長に常につきまといがちなのです。数値が下がる喜びに巻き込まれるようにして、拒食症に陥る例は、アメリカでイヤというほど見てきました。「完璧に掃除をしたい」という欲求は、部屋のホコリを一瞬にして見抜く「ロボット」を完成させます。

「危険」ということはありませんが、TOIEC990点、TOEFL660点、英検一級という人の話は、私にはそれほどうらやましくは聞こえず、長時間聞きたいものでもありません。私だけではなく、そう思う人が多いからこそ、「英語の達人」は苦労話の「聞き手」を探しているような気がします。

つまり「テレビゲームを十時間も続けていても、叱られるだけで、現実のメリットなどありえないのだから、そこから快楽を得られるというのは謎だ」というのは、おかしいと思うのです。「ロボット」の成長それ自体が、大きな「快」なのです。それが、現実の利益になるかどうかは、ある種の人にとってはどうでもいいことなのです。

英語のように、実益のための学問であっても、実際には「ロボット」の成長から得られる快楽の方が大きく、だからこそ「テスト」という「数値」を追求するようになるわけです。このことはもちろん、ある程度使い込んだ「ロボット」は「飽き」をもたらしやすく、その原因のひとつには成長が止まるからなのですが、その「飽き」を払いのけてなお「ロボット」を成長させるための、心理的な工夫が「テスト」だとも言えるでしょう。

つまり「ロボット」の成長は、一定段階に達すると、主観的にはわかりにくい領域に達します。そこで「客観テスト」という方法を用いて、確かに成長しているのだという実感と、それによって得られる成長動機を確保し続けるわけです。

とはいえ体重や体脂肪率といった「数字」を使って、「食欲を抑圧するロボット」を「成長」させるのは、ほどほどにしておくべきでしょう。それらが成長しきった先には「拒食症」しかありえないのですから。